兵庫の50回大会史

朝日新聞デジタル2018.3.19より引用、名前は省略。
外人の影響 早い目ざめ
〈野球の目ざめ〉 昨年の5月、開港100年を祝った神戸は、さすがに野球の目ざめも早い。居留地の外人たちが、いまも神戸市役所のすぐ南側にある東遊園地で試合していたのを、見よう見まね。まず兵庫県尋常師範(後の兵庫師範、神大教育学部)の校庭にはいり、県神戸商、関学中等部、神戸一中(神戸高)へ広まる。
(中略)
 佐々木(善照寺住職)は神戸一中時代、カーブを最初に投げたのが自慢。「学校が終ると東遊園地へ通い、外人のコーチを受けたが、愛知一中との定期戦でカーブを投げると、向うは曲る球など全然知らないので、だれも打てなかった」。佐々木の実兄が早大に野球部が生れたころの名選手泉谷。
 (略)
 〈優勝、また優勝〉 大正8年第5回大会の神戸一中を皮切りに、続いて第6回に関学中、2年おいて鳴尾で最後の大会になった第9回が甲陽中、と兵庫勢が相次いで優勝。そのときどきのこぼれ話。
「優勝旗を先頭にグラウンドを一周するのは、いま閉会式の大事な行事になっているが、あの年、われわれは何も見せものじゃない、母校の名誉のためにがんばっただけ、と場内一周を断った。それが当時の一中健児の気概」主将の来田(神戸高同窓会館)。いまでいうスライダーを投げた投手の山口と、9月に海軍機関学校への入学が決っていた三塁手吉田が活躍。故人。

一中