週刊金曜日49号 1994.11.4 目次、731部隊を追って 五〇年目の平房 第1回 

2025年9月19日

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週刊金曜日49号 1994.11.4 目次

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P20 七三一部隊を追って 第一回 五〇年目の平房  西野瑠美子
関東軍防疫給水部、通称七三一部隊。民間人も含めた人々を「実験材料」に、防疫・医療の名目で生体実験や細菌兵器の研究・開発などを行なった、戦争史上もっとも残虐な集団だ。731部隊とはいったい何だったのか。四週にわたり、その残映を追う。
 身ひとつで「満州」に
 五五年間の一九三九年。石井部隊は第二次ノモンハン事件に、碇常重軍医少佐ら二〇数名の「決死隊」を編成し、ハルハ河にコレラ、チフス、赤痢、馬鼻疽(馬などがかかる死亡率の高い伝染病で、他の家畜や人間にも感染する)などの細菌を投入する細菌攻撃を実施した。このときが、実戦における細菌兵器使用の最初であったといわれる。(略)
 七三一部隊の中には、ロの字の形で作られた本館の中に、七棟、八棟と呼ばれた特設監獄が作られていた。そこに中国人やロシア人、朝鮮人、モンゴル人、その他の外国人が、「実験材料」として監禁されていたのである。彼らは「マルタ」と呼ばれていた。(略)
 生きているうちに謝りたい
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 中馬城の証言者
(略)一九三三年、五常県の拉濱線背陰河に、関東軍防疫給水部の前身である細菌研究所が作られた。石井四郎率いるこの部隊の秘匿名は「東郷部隊」。近村の人々は、今も東郷部隊の本拠を「中馬城」と呼ぶ。城といわれるだけあって、建物のぐるりには堀が掘られ、さらに土壁と高圧電流が通った鉄条網が張り巡らされた。煉瓦造り平屋の建物群の建設にあたった中国人の労工は皆虐殺されたと、近郊の村(程家崗)に住む呉沢民さんは語った。(略)
 中馬城が完成してから周囲二五万平方メートルは立ち入り禁止になり、村人たちは近寄ることもできなかった。「城」には、大きな煙突がニョッキリ整えていた。「あの頃、そこに入れられた人は血を採られるらしいという噂があり、怖がって誰も近寄ろうとしませんでしたよ」。(略)
 一九三四年のある夜のことだった。呉さんは、その日の様子をこう語った。「その夜、家の外でガチャガチャ音がしました。その頃、このあたりには土匪が多かったので、私たしは手製の鉄砲を構え様子をうかがいました。すると外から、自分たちは抗日地下工作員だが、日本軍に捕らえられ中馬城に連れてこられた。暴動を起こして脱獄してきたので助けてくれ』という声がするのです。
 出てみると、鉄の鎖の足かせをはめられたままの中国人の男たちがいました。兄の呉化民は農具のまさかりを取り出し、その人たちを家の裏に連れていき、石の上で足かせの両足首のリベットを叩き壊してやりました。
 はじめのうちは数人だと思っていたところ、同じような人が次々にくるではありませんか。もしも日本兵が探しにやってきてこんなところを見つかったら、自分たちばかりでなく家族まで殺されてしまいます。そこで一〇人ほどの両足をはずしてからは気が急いて、あとの七、八人は少し離れた場所に連れていって片足だけをはずしてやりました。いつ追手がやってくるかわかりません。そこで東の方は山賊が多いから、日本兵はいないだろう。そっちへ早く逃げろ』と言って、逃がしてやったのです。(略)
 古井戸に眠る足かせ
(つづく) 
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