週刊金曜日50号 1994.11.11目次、731部隊を追って 第2回 「朕」の命令の絶対性・帝銀事件

2025年9月19日

uimg-s678_20221230125139dd0.jpguimg-s679_20221230125137086.jpg
週刊金曜日50号 1994.11.11目次

uimg-s680_20221230125142540.jpg
P46 731部隊を追って 第2回 「朕」の命令の絶対性 「朕」の命令の絶対性 西野瑠美子
「お国のため」「戦争のため」
 戦犯免責と保身
P47敗戦三年後の一九四八年一月二六日、帝銀事件が起きた。伝染病が発生したときだった。帝銀椎名町支店に現われた厚生技官と名乗る男が、消毒するからと銀行員に「予防薬」を飲ませ、一二名が亡くなった事件である。あのとき捜査線上に、731部隊元隊員が浮かんだ。当時警視庁目白署捜査本部の捜査一課係長であった甲斐文助警部は、日誌に捜査状況メモを記録していた。
彼の記録では、四月二七日に七三一部隊長であった石井四郎に会っている。そのとき、石井はこう話したという。
「おれの部下に(犯人が) いるような気がする。一五年、二〇年(たっても)、おれの力で軍の機密は厳格であるので、(部下は)なかなか本当のことは言わぬだろう。いつでもおれのところへ来い」。
また、七月になって行なわれた事情聴取の際にも、石井は「(犯人は)軍関係に間違いなし。自分もそう思う。七三一の各研究所でベスト菌の人体実験の際、生前に三日、四日、五日の症状を見るために殺して解剖した」と語っているというのだ(一九八七年五月二〇日『中国新聞』)。石井は隊員たちに七三一部隊の秘密保持を厳命していたというが、にもかかわらず、裏ではこうした言動を行なっていた。(中略)
uimg-s681_20221230125141133.jpg

P48石井が引き揚げのときに行なった緘口令を証言する元隊員は少なくない。しかし帝銀事件の捜査が末端の元隊員におよんでいるのは、下級隊員を含めた隊員名簿が「ある程度」わたされ作成されていたのではないだろうか。一九四七年三月一七日GHQ法務部は、「ハルビン試験所関係者名簿提出」を要求していた。この要求は、「ハルビン試験所に所属した将校、下士官、民間人を含む全ての日本人人員の完全なリストを英語で提出するように」という内容だったという(笹本征男・若松征男「細菌戦の戦後処理に日本政府がかかわっていた」『エコノミスト』一九九四年八月二三日号)。
笹本・若松両氏の調査では、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)資料の中に「関東軍防疫給水部将校リスト」が発見され、そこに一〇〇人の将校が記載されているという。
しかしGHQは、民間人(軍人以外の軍属らを指すのだろうが)のリストも要求しているわけで、「将校リスト」以外の名簿も作成されていたのかもしれない。そう思い至るのは、帝銀事件と絡んで飛び出した、731部隊教育隊にいたS氏らの話からである。
「帝銀事件が起きたときです。その頃私は、国鉄に勤務していました。私の職場に刑事がやってきたのです。刑事は私に、「あなたは731部隊にいただろう。アメリカに逮捕されたときは自殺せよと上官に言われ、青酸カリをもらっているんじゃないか?」と詰め寄りました。私はそれについてつっぱねましたが、刑事はその後もしつこくやってきては、職場の上司に私の素行などを聞いていくんです。そのうち私は回りから白い目で見られるようになって。とうとう職場を辞めてしまいました・・」
 そういえば731部隊の運輸班にいて隊長車の運転手をしていたH氏は、私が彼を初めて訪ねたとき、開口一番にこう言った。「あんた、わしが話すことを警察にしゃべるんじゃないだろうな。」なぜそんな心配をするのか聞き返すと、彼は、帝銀事件のときに元隊員に捜査がおよんでいるのを知り、警戒していたのだという。そのときの不安が、まだ心のどこかに尾を引いていたらしい。当時、少なくない元隊員は自分のところにも捜査の手がおよぶのではないかと戦慄していたのだろう。
 特殊社会の異常心理
 七三一部隊の姉妹部隊である北支那派遣軍甲一八五五部隊第二分連隊にI氏が配属になったのは、一九四三年のことだった。配属前の四カ月間、衛生兵教育を受けることになっていたが、八月になって突如、北京市街を中心にコレラが発生したため、その「防疫」に駆り出され、配属されるまで四カ月の教育期間が六カ月に延長された。このときのコレラ流行は、長田友吉の自筆供述書によれば「一八五五部隊西村部隊が実験のためにコレラ菌を散布したものである。(略)
P49彼が配属された第二分連隊は静生生物調査所の建物を占拠したものであった。半地下、三階建て(三階部分は予備飼育室周の倉庫二棟がある屋上)の二階部分が、ノミの大量繁殖室になっていた。すでにいた兵隊と合わせて、一七名でノミの飼育にあたったのである(最終的には五〇人ほどになった)。
 ふんどしひとつになり、飼育室で一日を過ごした。石油缶の飼育箱の底には血粉を敷いた。乾燥して固くなった豚の血を屠殺場からもらってきて粉砕し、それを粉にしたものである。さらにふすまとエビオズの粉、豆溝の粉を入れ、カゴに入れたネズミを置き、ノミを放した。ノミは身動きできないネズミにたがって血を吸い、二八日周期で繁殖を繰り返していった。
 敗戦までノミの飼育を続けたI氏は、二度、そこに幌のかかった特別車で「人間」が運ばれてきたことを記憶している。(略)
 、それまでノミの飼育室として使っていた部屋は片付けられ、鉄格子のはまった黒く塗られた窓ガラスの部屋に、トラックから下ろされたわけです。監獄になった一角には行ってはいけないと言われていたのですが、私はどうしても気になって、こっそり行ってドアの覗き窓から中を見たのです。
 私は全身が固くなりました。部屋の床にはアンベラが敷いてあり、饅頭が二つのっている小さいテーブルがひとつ置いてありました。そこに、私と同じぐらいの年(二〇代前半)の中国人の男が座っていたのです。のぞいた途端、男はギョロッとした目で、黙ったまま私を見たのです。どのくらいの時間だったか……。一瞬のことだったのかもしれませんが、その光景は私の目に焼きつきました。戦後になって、私は何度も自分がその立場になった夢を見てうなされました」。
 非戦闘員を含めた人々を「実験材料」として細菌兵器研究を行ない、あるいは関連していたのは、平房の七三一部隊だけではない。その組織図は東京にあった陸軍軍医学校を頂点にして、各地に点在していた。関東軍防疫給水部(七三一部隊)をはじめとして、北支派遣軍の一八五五部隊(北京)、中支派遣軍の一六四四部隊(南京)、南支派遣軍の八六〇四部隊(広東)、南方軍の九四二〇部隊(シンガポール)、さらに関東軍下には、ハイラル(五四三部隊)、林口(一六二部隊)、牡丹江(六四三部隊)、孫呉(二六四五部隊・六七三部隊)、新京の関東軍軍馬防疫厳(一〇〇部隊)、さらに大連衛生研究所も密接に関わっていた。(略)つづく
著作権は週刊金曜日にあります。