岸信介~安倍首相の祖父

2025年9月29日

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Wikipediaより引用。
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岸 信介(きし のぶすけ、1896年(明治29年)11月13日~1987年(昭和62年)8月7日)は、日本の農商務官僚、政治家。第56、57代内閣総理大臣。正二位大勲位。

青年期まで
山口県吉敷郡山口町(現・山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世夫妻の第五児(次男)として生まれる(本籍地は田布施町)。中学三年の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となる。

旧制岡山中学、旧制山口中学(戦後の山口県立山口高等学校)、第一高等学校 (旧制)を経て、1920年7月に東京帝国大学法学部法律学科(ドイツ法学)を卒業。我妻栄、三輪寿壮や平岡梓(作家・三島由紀夫の父)たちとは同期だった。

高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄とは常に成績を争った。帝国大学では彼らの在学中に銀時計下賜を廃止しているため、正確な席次は不明。岸は憲法学の上杉慎吉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧める一方で、周囲は大蔵省や内務省に入ることを期待。岸は官界へ進み、敢えて農商務省を選択した。

満州国時代
1936年(昭和11年)10月には、満州国国務院実業部総務司長に就任。満州国時代には、関東軍参謀長であった東条英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介など、軍部・財界の知己を得た。

東条政権入閣
1941年(昭和16年)10月に発足した東条内閣に、商工大臣として入閣し、東条内閣にいる間はアジア太平洋戦争中の戦時経済の元締となった。1942年(昭和17年)のいわゆる「翼賛選挙」で当選し、政治家としての一歩を踏み出す。1943年(昭和18年)、日本軍劣勢への対応策として商工省が廃止され、軍需省へと改組された。軍需大臣は東条首相の兼務となり、岸は軍需次官(無任所、国務相兼務)に就任。半ば降格とも思われる処遇は、東条との関係に溝を生じさせる。

1944年(昭和19年)7月22日にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となる。宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸内府と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東条内閣の打倒と、戦争終結内閣実現の工作が、密かに進められた。

1944年7月13日には、難局打開のため、内閣改造の意向を示した東条に対して、木戸は、東条自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。東条は要求を受け入れ、内閣改造に着手。しかし、既に岡田啓介と気脈を通じていた現職閣僚の岸が辞任を拒否し、内閣総辞職を主張する。東条の側近である四方諒二東京憲兵隊長が岸の自宅に押しかけ、恫喝するも岸は折れず、更に申し合わせていた重臣らが入閣を拒否した。やむなく東条は、7月18日内閣総辞職を決意した。

1945年3月11日、翼賛政治会から替わった護国同志会を率いる。

戦犯容疑者から復権まで
1945年(昭和20年)8月15日にアジア太平洋戦争が終結すると、故郷・山口市に帰っていた所をA級戦犯容疑者として逮捕され、巣鴨拘置所に収監される。しかし、冷戦の激化に伴い、アメリカが対日政策を大きく転換。戦後の日本を「共産主義に対する防波堤」と位置づけ、旧体制側の人物を復権させたため、岸は戦犯不起訴となり、東条ら7名の処刑の翌日に釈放された

1953年(昭和28年)に自由党公認候補として衆議院選挙に当選。1954年(昭和29年)自由党を除名されると、新たに日本民主党を結成し幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導、1955年(昭和30年)に新たに結成された自由民主党の初代幹事長に就任する。同年には左右両派に分裂していた社会党が再び合同し、これによっていわゆる「55年体制」が到来する。

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総理大臣就任と六十年安保
1956年(昭和31年)12月、外務大臣として石橋湛山内閣に入閣するが、2ヶ月後に石橋が病に倒れ、首相臨時代理を務める。石橋により後継首班に指名され、石橋内閣が総辞職すると、全閣僚留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。

1958年(昭和33年)4月25日に衆議院を解散。同年5月22日の第28回総選挙で勝利し(自民党は絶対安定多数となる287議席を獲得)、同年6月12日に第57代内閣総理大臣に就任し、第二次岸内閣が発足する。

1958年当時の岸内閣は、警察職務執行法(警職法)の改定案を出したが、「治安維持法の再来」と揶揄され、社会党や総評を初めとして反対運動が高揚し、撤回に追い込まれた。又、日本教職員組合(日教組)との政治闘争において、日教組を封じ込める策として、教職員への勤務評定の導入を強行した(これに反発する教職員により、いわゆる「勤評闘争」が起こる)。

この他には、最低賃金制や国民年金制度といった社会保障制度の導入も実施した。

岸の総理大臣在任中の最大の事項は、新日米安全保障条約の調印・批准と、それを巡る安保騒動である。1960年(昭和35年)1月に全権団を率いて訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意する。

しかし、帰国後の新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。5月19日には新条約案を強行採決するが、国会外での安保闘争も次第に激化の一途をたどる。国会は連日デモ隊に包囲され、6月10日には羽田でアメリカ大統領秘書官ハガチーが群衆に包囲され、6月15日にはデモに参加していた東京大学学生樺美智子の圧死事件が発生する。反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。岸は、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである」と事態沈静化を図るが、東久邇・片山・石橋の三人の元首相が退陣勧告をするに及び、事態は更に深刻化する。

1960年(昭和35年)6月15日と18日には、岸から自衛隊の治安出動を打診されていた防衛庁長官・赤城宗徳がこれを拒否した。一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と自殺を考える所まで追いつめられたが、条約の自動承認と、アイゼンハワー米大統領の訪日延期が決定。「私のやったことは歴史が判断してくれる」の一言を残し、新安保条約の批准書交換の日の1960年6月23日、混乱の責任をとる形で岸内閣は総辞職した。辞任直前には暴漢に襲われ、瀕死の重傷を負う。総理大臣在任期間は、歴代首相中八位となる3年を超える(2004年4月1日現在)。

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晩年
総理辞任後も政財界に幅広い人脈を持ち、愛弟子の福田赳夫と田中角栄による自民党内の主導権争い、いわゆる「角福戦争」が勃発した際も、福田の後見人として存在感を示した。

1979年(昭和54)10月7日の衆議院解散を機に、政界を引退。晩年は、御殿場の別邸で悠々自適の生活を送る一方、保守論壇の大立者として、憲法改正論議などに関し、積極的な発言を続けた。1979年(昭和54年)、笹川良一と共に第一回国連平和賞(人口問題研究への功績)を受賞。