週刊金曜日第61号 1995.2.10 目次、ビルマの慰安所と商社
P22 ビルマの慰安所と商社 発見された旧日本軍の"史料" 林博史
これまで、ビルマの慰安所については公文書による裏付けがなかったが、昨年の夏、イギリスで何点かの史料が発見され、慰安所への軍の関与、さらに商社員の慰安所利用に便宜を図っていたことなどが明らかになった。戦後になっても身落とされていた史料について、発見者の林博史氏に解説、真相を究明してもらった。
・手つかずだった「慰安婦」調査
(略)「従軍慰安婦」問題については、国内でも警察や法務省などの資料が公開されていないし、海外の史料調査や関係者からの聞き取り・史料収集などやるべきことばまだまだ残っている。にもかかわらず、日本政府は真相解明はもう棚上げし、民間募金でけりをつけてしまおうというのである。
さてアメリカの日本軍関係史料については、研究者やマスコミも注目をし、「従軍慰安婦」問題についてもいくつか貴重な史料が見つかっている。しかしイギリスについては手がつけられていなかかった。ビルマやマレー半島などは元イギリスの植民地であり、戦争末期にはイギリス車がインドからビルマに攻め込んできた。さらに日本の敗戦後には、マレー半島やインドネシアなどに上陸し日本軍の武装解除にあたったことから、これらの地域の日本軍関係史料をイギリスが詰っていることは十分に予想された。
昨年の夏に私が訪英した際に、マレー半島の華僑粛清=虐殺などに関する史料とともにビルマにおける日本軍慰安所に関する史料も見つけた。ここではこの慰安所に関する史料について紹介したい。
・軍と商社の結びつきを示す記載
ビルマについては、これまで慰安所に関わる旧日本軍の公文書はまったく見つかっていなかった。多くの旧日本軍史料が所蔵されている防衛庁防衛研究所図書館からもビルマ関係は報告されていない。もちろん日本軍関係者や慰安所の業者、元慰安婦の方々などの証言によりビルマの各地に日本軍の慰安所が設置されたこと、ビルマ人女性の慰安婦もいたことなどは明らかだったが、公文書の裏付けがなかった。そのためか、日本政府が一九九三年八月に発表した調査鰭果「いわゆる従軍慰安婦問題について」(内閣外政審議室)においては、「慰安婦の出身地」の中にビルマが入っていなかった。つまりビルマ人慰安婦の存在を、日本政府は認めていないのである。
今回発見した史料は、ロンドンのインペリアル・ウォー・ミュージアム(大英帝国戦争博物館)の史料部に所蔵されている文書である。おそらく、ビルマ戦線でイギリス軍が日本軍から没収したものと推定される。
この史料の表紙には、『昭和十八年 諸規定綴 第三六二九部隊』と書かれていた。第三六二九部隊とは、ビルマ中部の都市マンダレーに駐屯していた野戦高射砲第五一大隊のことである。この綴りの中には、マンダレー駐屯地司令部などが定めたさまざまな規定が綴じられている。その中に、慰安所に関するものが四点あった。交通の要衝であるマンダレーは日本軍の補給・集積・輸送の拠点であり、兵站など後方関係の部隊が駐屯していた。
最も興味深い史料は、一九四三年五月二六日、マンダレー駐屯地司令部が定めた「駐屯地慰安所規定」である。これは全二三条、別紙二枚からなる規定である。これまで中国、フィリピン、マレー半島、沖縄などでの慰安所規定が見つかっているが、それらと比較して特徴的なことは、商社員らに慰安所利用の特別な便宜を図っていることである。まず関連する条項を紹介しよう。
第二条 慰安所ハ日本軍人軍属二於テ使用スルヲ本則トスルモ軍人軍属ノ使用ニ支障ヲ与へサル限度二於テ左記各項ヲ厳守ノ上当分ノ中「マンダレー」在住ノ日本人ハ二四・三〇以降二限り特二登楼ヲ許可ス従ツテ二四・三〇以前二於ケル立入リハ之ヲ厳禁ス
左記
l.軍人軍属ノ遊興ヲ妨害セサルコト
2.規則二違反シ又ハ風紀ヲ紊スカ如キ行為ヲナサゝルコト
3.登楼時刻以前二於ケル予約ヲ厳禁ス
4.料金ハ総テ将校ノ額トス
5.前各項二違背セル者二対シテハ許可証ヲ引上ケ爾後立入ヲ禁止スル外其ノ行為ノ如何二依リテハ其ノ商社ハモトヨリ日本人全部ヲ禁止スルコトアルへシ
但シ奥地等ヨリノ来縁者ニシテ右ノ時間以降二登楼シ得サル特別ノ事情アルモノニ限り日本人会長ハ自己ノ責任ヲ以テ其ノ都度予定時間資格氏名等ヲ記入セル証明書ヲ本人二交付シ之ヲ楼主ニ明示スルニ依り開業時間内適宜登楼スルコトヲ得
(略)
・日本の軍政下で日本企業進出
(略)マンダレーに関わりがありそうな事例をいくつか紹介したい。た
とえばビルマ物資配給組合が組織され、そこーで砂糖・塩・石炭・マッチ・タバコ・繊維製品・雑貨類などを扱った。この配給組合は当初、三井物産・三菱商事・日本綿花(のち日綿実業)・安宅商会・三興の五社で構成され、のちに東綿・江商・千田商会・鐘淵商事・丸永・大丸が加わって一一社で構成された。この配給組合の下に、金塔商会・東洋商会・大原商会など二社が卸商として配給に関わった。配給組合の支部の一つは、マンダレーにもおかれていた。

P24 米の買付・集荷・保管・積み出しは、日本ビルマ米穀組合(三井物産・三菱商事・日本綿花の三社で構成)が担当した。綿花の栽培・集荷・綿花工場の経営には、日本綿花栽培協会(日本綿花・江商・富士紡績・中央紡績の四社)があたり、マンダレー地区は中央紡績が担当した。木材の開発・製材・配給は日本ビルマ木材組合(三井物産・三菱商事・日本綿花・安宅商会の四社)が担当し、マンダレー地区でも四つの製材工場を経営した。ほかにマンダレー地区では、高砂麦酒がビール工場(のちに物資不足のため味噌・醤油工場に転業)を、日南農林工業がマッチ工場を経営していた。またこのマンダレー地区での皮革なめし用のタンニン材料の買い付けは三菱商事が担当、原皮の開発・改善については兼松商店が担当し、日本原皮に売却していた。マンダレーから北東に入ったボードウィン鉱山は、鉛・亜鉛・銅などを産出する重要な鉱山で軍直営になっていたが、実態は三井鉱山が運営していた。ほかに各地の鉱山や工場などの経営が日本の企業に委託されているが、ここでは省略する。
このようにさまざまな物資の買い付けや配給、事業経営に多くの商社をはじめ、日本企業が関わっていた。ビルマでは三井物産・三菱商事・日本綿花が深く食い込んでいたように見られる。これらの商社員たちの中で、中北部にやってきてマンダレーに立ち寄った者も多かっただろう。その彼らは、軍慰安所利用の便宜を受けられる立場にあった。
ビルマ軍政を担当した第一五軍司令官だった飯田祥二郎は、戦後ビルマ軍政を回顧した中で、(略)。さらに「彼らはビルマに在る利権は之を日本人の手に入れ、将来に亘り之を経営して行くものだとの基礎観念の上に立ち」、「ビルマ経済力増進強化のため、逐次ビルマ人にその力を持たせるように考慮を廻らすというようなことは、全然念頭にないというてもよい。このような日本人がどんどん進出してきて、各方面で威張りちらして働き出すのだから、ビルマ人の頭にこれが何と映ったであろうか」と述べている(『史料集南方の軍政』)。(略)商社が軍との関係を活用して慰安所を利用していたとするならば、当然、その責任も共有されなければならないだろう。軍と結びついて、ビルマから経済収奪を行なったこととともに。
P25 ・防衛庁にも関連史料が
もう一つ興味深い史料は、一九四五年一月二日にマンダレー駐屯地司令部によって制定された駐屯地勤務規定の中に別紙として付けられている、慰安所の一覧表とその地図である。「軍指定車准指定食堂慰安所」と題された表には、飲食店八店とともに軍指定慰安所五軒と軍准指定慰安所四軒が掲載されている。ここに慰安婦の出身を示すと見られる項があり、指定慰安所の一つは「内地人」がおり「将校慰安所」となっている。残りの指定慰安所は「広東人」のもの一軒、「半島人(朝鮮人)」のもの三軒となっている。准指定の四軒はいずれも「ビルマ人」であり、そのうち一軒は「ビルマ兵補専用」と記されている。つまりこれら九軒の慰安所には日本人と朝鮮人だげでなく、中国の広東からも慰安婦として連れてこられ、また現地のビルマ人も慰安婦にされていたことがわかる。
兵補とは日本軍が補助兵力として占領地の住民から採用したもので、日本軍の下請けをする植民地軍のような存在である。そのビルマ人兵補にも、慰安所を設けていたことがわかった。(後略)
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はやし ひろふみ一九五五年生まれ。関東学院大学助教授。日本の戦争責任資料センター研究事務局長。主著に。『華僑虐殺』(すずさわ書店)など。
引用終わり。著作権は週刊金曜日にあります。




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