皇軍毒ガス作戦の村 最終回 週刊金曜日第80号

2025年9月19日

週刊金曜日1995.6.30号P64~67より引用。 石切山 英彰
北坦村虐殺事件・加害者の証言
虐殺の村・北坦での聞き取り取材を終えた筆者は日本での調査にとりかかり、作戦を指揮した大隊長が毒ガス使用を明記した文書を発見、さらに戦闘に加わった元兵士から毒ガス戦の生々しい様子を聞き取った。そして元大隊長を捜し当て、その自宅を訪ねたー
 一 毒ガス戦の決定的文書
(略)「大江部隊の掃蕩治安戦にて特筆大書すべき戦闘は定県、安国を警備中大隊の全力を以て毒瓦斯(筆者注‥毒ガス)を利用し共産軍第一大隊を包囲殲滅せる北坦、南坦(召村南側河の南側)付近の○○戦なり。(略)
 二 作戦に参加した元兵士の回顧
大日本帝国軍において少なくとも命令系統のトップにいた昭和天皇ヒロヒト氏さえ、かつてのアジアの貧しい民衆をイジメ尽くし、殺しまくった責任の一切を問われず、またそれによる罪悪感にさいなまれて発狂することも一切なく、日本人の主流に「心優しいお方」と「慕われ」て一九八九年にいい気なジイサンのまま死亡できたことを考えれば、彼の厳格な指揮下にあった大日本帝国軍の命令系統の下で個々の侵略作戦のお先棒を担がされた末端の軍人の「侵略責任」を問うのは、少なくともヒロヒト氏に対する日本民族としての「処罰」をきちんと済ませた後であるべきだ、と私は考える。(略)
 翌日、私はこの大隊長宅を訪問したが、その様子を報告する前に、同じく神戸在住の第一大隊関係者で北坦村毒ガス戦に参加した元日本軍兵士(七五歳)が私との三〇分あまりの電話のなかで話した証言を紹介したい。彼は、「北坦では、〞あか筒〞を便うたから殲滅できた。このことは、みんなが知ってますよ」と私にはっきりと言った。現場を経験した兵士の言葉として、北坦村における日本軍の毒ガス「あか」の使用が明確に証言された。歳のわりに若々しいよく通る声で、彼は以下のように私に語った ー「北坦では一千人ほど殺したでしょうね」「あか筒というやつは、普段からよく持って歩きましたですけどねえ。普通の兵隊にも、みんなにあか筒が配られた」。懐中電灯のような形でしたか? 「そうそう!」「赤いのと青いのと、持たされた」(「あか筒」と「みどり筒」のことであれば、中国側資料にある上坂勝連隊長の供述と一致する)。「あか筒のガスはトウガラシのきついニオイがした。嗅ぐと涙が出て、クシャミがひどかっだ」(毒ガス「あか」に関する粟屋教授の説明と一致する)。「北坦村の抗日勢力を殲滅後、部落に入って一軒一軒、残党狩りした。農家の庭でモミ殻をのけると、地下トンネルの入り口となっていた。私は北坦村で初めて坑道を知った。おっそろしいですよ。あんな恐ろしい穴に入る訳にいかないから、あか筒使った」「ある家のなかでは、一七〜一八歳の娘さんとその母親が奥でワナワナ震えていた。残酷やなあ、と思った」。(略)
 三 作戦を指揮した元大隊長の回顧
(略)大隊長は、ステテコに薄い白の肌じゅばんの姿で出て来た。茶色のセルロイドメガネをかけている。私は、玄関を入って右側の部屋に通された。テレビの置いてある六畳ほどの部屋で、居間のようだった。大隊長は、カメのぬいぐるみが二つ置いてあるキャメル色の長いソファーに、ぬいぐるみを右側に腰を下ろし、私はその正面に座った。アゴが重くガッシリしているのが非常に、印象的だった。いかにも「ブン殴られて、ブン殴られて鍛え上げられた」帝国日本軍人のツラ構えだと思った。太いマユ毛に白い毛が混じっている。鼻筋がまっすぐで、頬がややたれている。耳が大きい。黒髪の少し混じる頭は、上の方が少し薄い。全体的にややでっぷりとした体格で、腹が少し出ている。ドッシリと重い視線で、真っすぐ私を見てぐる。ややしわがれているが、力のある声が腹から響く。語尾にときどき関西弁の「ーや」「ーや」がついた。-北坦村で毒ガスを使ったと、中国現地の取材で聞いたんですが。「シナ人はみんな、そう言う」「あれは発煙筒。火事の煙と同じ」「とにかく発煙筒。空気が希薄になるので、死ぬのは当たり前」「共産党か、キミは?」(私は共産党員ではない)。最初は、こうしたダンコとした否定の姿勢だった。
 しかし、時間をかけて質問を繰り返すうちに、こういう言葉がチラホラと出始めた-「私は、陸軍習志野学校(筆者注:毒ガス運用に関する将校、下士官の教育機関)で教官を務めたが、習志野学校では、あか筒なんぞは毒ガスと認めておらんかった」「イペリットガスやセイサンを本当のガスと言う」毒ガス「あか」を使ったことを前提に「あか」の殺傷力の弱きを弁護するような言葉が続く。「対戦車の時は、セイサン使う。ものの二秒で、人間は死ぬ。ボクは使ってないが」「あか筒ば、クシャミガス。致死カはなく、一時的な効果しかない。従って、兵器としての価値なし。我々は毒ガスと言わずに、《ケムリ》と呼んでいた。吸い込んだ場合に、銃の照準合わすのが不便になる程度だ」「発煙筒と同じ。密閉したから、窒息して死んだだけ」「かわいそうだったのは、今でも目にちらつくが1日(涙ぐみながら語る)ー兵隊も死んだが-お母さんが一歳くらいの子供を抱いて穴(筆者注:地道のこと)から出て来た。窒息して倒れた母親の乳をその子供がなお吸っていた」「これは向こうの兵隊が巻き込んだ。むごい。兵隊だけで戦えば、こうはならんのに」。生活するその場を日本軍に包囲急襲された北坦村の農民たち。彼らが戦闘に巻き込まれない訳がない。「あか筒使ったかば、記憶ない。命令しとらんから」。声がよどんだような気がした。最初の頃の非常に強い否定の姿勢からかなり変わって来た。「その後のその子供のことは、覚えとらん」。私から初めて目をそらした。語気が弱くなったと感じた。(略)
 さらに波状的に質問を重ねるとー「使ったかどうかは別として、兵隊はあか筒持っとったでしょうねえ」と、あか筒の所持を婉曲に認めた。言いながら、タンがひどくノドにからまった。タンを吐きに部屋を出た。歩行がややおぼつかない。
ー毒ガスを実験的に使い、その後報告書を出すよう師団命令を受けた、と上坂さんの供述記録にあるのだが。「師団から命令あったとすれば、当然、歩兵はあが筒持っとるでしょう。ボクは、上坂さんから実験的に使えとの命令は受けてないが」。しかし、その直後、「あか筒使ったかもしれない」。あか筒の使用をほのめかした。彼はこのあやふやな言い方を何度も何度も私に繰り返した。私が確認しようとさらに質問を重ねると、「(あか筒を)持って行けとも、行くなとも言えない。中国人が記録しているなら、使ったかもしれない」と明言した。
 上官命令に絶対服従だった当時の日本軍。国際法で使用が禁止された毒ガス兵器の携行に関して、大隊長が一般兵士に「持って行けとも行くなども言えない」などということは、常識的にあり得ない。決定的証拠となる先の回想文書の「毒ガス」記述を待つまでもなく、日本軍が北坦村で毒ガスを使用したことは大隊長からのこの聞き取りによっても確認できたと考えていいのではないか、と私は思った。(略)
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いしきりやま ひであき 一九六〇年生まれ。一九八五年から中国・北京大学に留学。現在、会社員。
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