在日朝鮮人こそ加害の歴史の生き証人だー京都市丹波マンガン記念館
昨年12月、丹波マンガン記念館創設者ご家族のミニ講演とコンサートを聞く機会があり、2017.10 に館を訪問したことを思い出した(下記参照)。そして、館の創設者李貞鎬さんの三男であり現館長の本を読みました。
「丹波マンガン記念館の7300日」李 龍植リ ヨンシク(著/文)解放出版社
在日朝鮮人の成り立ちとその歴史、戦後の問題点が分かりやすく解説された本です。
在日朝鮮人は戦前からの日本政府と朝鮮総督府に日本へ強制連行され、鉱山や麻生太郎元首相祖父などの炭鉱、日本軍や民間の工場で賃金もほぼ支払われずに働かされ、戦後も朝鮮戦争が始まり祖国にも帰れずそのまま生活していること。税金を払っているのに選挙権がなく、国民年金に加入できず、国籍条項が撤廃されても経過措置がないため在日1世は無年金である。
朝鮮民族の言葉や歴史など民族教育を行う朝鮮学校の多くがGHQや自民党政府に弾圧、解散させられた。現在も各種学校扱いで国や地方自治体からの補助金は私立学校の10分の1に抑えられ、授業料が私立学校より高くなり、かつては夫婦で朝鮮学校の教員をやっていると生活できないのでアルバイトが必要だった。国公立大学の受験資格もなく大検に合格しないと入試も受験できない。
日本人に誤解が多いが、「朝鮮籍」とは、日本の植民地時代に登録されていた「朝鮮戸籍」のままで、韓国、北朝鮮のいずれかの国の国籍取得の手続きを行わなかった人に対する日本政府がつけた便宜上の記号のことである(私の注、北朝鮮国籍のことではない)。北朝鮮が拉致やミサイル発射など事件を起こすと、民族服の「チマチョゴリ」を来た在日朝鮮人が狙われ、傷害や強姦事件が2009年から過去10年間で年間1000件を超え、チマチョゴリを着て外を歩けない(私の注、日本人が着物を着て外出できないのを想像されたい)。その他不動産屋での賃貸契約差別、就職差別、結婚差別などがある。
丹波マンガン記念館は日本の加害の歴史を直視し人権を学び、朝鮮人の強制連行を展示する国内唯一の博物館です。行政の支援を一切受けられず、李さん個人で数億円の資産を投じて運営してきたが、コロナ禍後休館中という。このまま閉館とならないよう京都市、京都府など行政の支援と、日本国民の民度が問われていると考えます。
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以下、2017.10 の「丹波マンガン記念館」へ見学時の記録を書く。
記念館のHP
京都市右京区京北下中町西大谷45
(2023年12月現在、コロナ禍後で休館中)
早朝、京都、阪急四条大宮から周山行きのJRバスに乗った。途中北山杉の製材所などが印象に残った。
周山の同じ車庫から京北ふるさとバスの弓削線に乗り換え、10分ちょっとで「下中」バス停下車。
開館まで時間があったので、近所を散策。 お地蔵さんを見かけた。

「背負い地蔵」の案内板あり。周山城は丹波攻略時の明智光秀が建てたとか。近在の社寺を破却し、材木を集めたという。

マンガン記念館の近くに太陽光発電を見かけた。
右の写真から、マンガン記念館へ。石を押しつぶす機械

飯場 (以下説明板より) 昭和10年頃~35年迄、国道、府県道より徒歩10分から3時間くらいの人里離れた所の付近の立木を伐採して飯場を建設し、マンガン鉱採掘のための家として生活した。
屋根。壁は杉皮で、内部はセメント袋をノリで張り、灯火は石油ランプで、飯場主の家族と、単身採鉱夫数人が生活した。
地下資源開発者に、苛酷なきびしい生活であった。

昭和16年頃から同27年頃迄、食糧不足により、夕食はだんご汁の毎日であった。
また、煙草も不足だったので松葉・さつま芋の葉を干して吸った。

丹波マンガン記念館は、鉱山当時の坑道を観光用に拡張して坑道内を歩けるようになっている。

(説明板より)丹波山地は古くからマンガン鉱石を産出することで知られていた。
丹波山地からマンガン鉱山はすべて姿を消した。この新大谷鉱山は最後の鉱山であった。

(説明板)坑内木馬
昭和30年頃まで鉄が不足しており鉱山で使う細いレールや車輪がないので木馬というソリで丸太を横に枕木のように並べた木の上を100kgの功績を積んで運びました。のちにレールの代わりの木の上を木の車輪を走らせたトロッコを使っていました。

(説明板)ゲンノウ振り
ゲンノウ振りとはダイナマイトを入れる穴をあける事です。
一人がノミを持ち一人がハンマーを振り25(?)位の直系の穴で奥行き30cmを1日かけ1本開けやっと1回の発破をして岩石を破壊するのです。
暗いアンドンの灯りでハンマーを振るので大変に危険な作業で募集や強制連行で連れて来られた朝鮮人が多く作業しました。

巻き上げ作業
50kgのトロッコ又は木馬を60m下から巻き上げる。

削岩機によるきっ孔作業
削岩機で1日1.5mの穴を200本も開けられます。大量のマンガンを掘れるようになったのですが大量の発破で多くの粉塵が発生してじん肺患者が激増しました。
細脈掘り
細脈掘りとは鉱石だけを掘ります。横に広がる鉱脈では40㎝を寝ながら掘り、縦に広がる鉱脈では20cmの隙間に横向きに入って行って鉱脈だけを掘ります。戦争中は朝鮮人に掘らせました。
坑道から出ると、出口に資料館がありました。
(以下、説明板より)「丹波マンガンと朝鮮人たち」
丹波マンガン鉱山史を記録する会
丹波にある約300のマンガン鉱山では、多いときで3000人以上の朝鮮人が採掘・運搬などの重労働に携わった。1930年代からマンガン採掘が盛んになり、労働力不足のため、募集で朝鮮からやってきた人、九州や北海道の炭鉱などに強制連行され、そこから逃げだしてきた人などが集まった。
日本人の鉱業権者から採掘を請け負い、朝鮮人ばかりで坑口の近くに飯塲を作って生活した。規模の小さな鉱山がほとんどだったため、5-20人ほどで採掘した。機械を使わないため、ハンマーを振り、自分で火を起こして刃を研いだ。ノミを使ってダイナマイトの穴を開けた。功績は自分たちの肩に背負い、中腰のまま歩いて坑内から出した。鉱山からは峠を越える山道を、200キロ以上の鉱石を背中に担いで、朝鮮人の隊列が登った道もある。坑内は労働環境が悪いため、じん肺や結核が職業病だった。
女性たちは電気も水道もない飯場で、山から山菜を採ってきて炊事し、川で洗濯した。飯場頭の嫁が一人で、20人以上の人夫、家族の家事すべてを引き受け、苦労した人も多い。
飯場や坑内では朝鮮語が飛びかい、日本語より朝鮮語が通用語だった。まさに「国際的」な空間だったわけだ。それを思うと、最近、このあたりの地方自治体が「国際化」に多額の予算を使いながら、ちっとも成功していないのがこっけいに見える。
マンガン鉱山は、安い輸入鉱が大量に流入した1970年代に、すべて閉山した。鉱山がなくなった後も、じん肺に苦しんでいる在日朝鮮人が数多くいる。だが、鉱山があったことは地元でさえ忘れられつつあるのが現状だ。
昨年初めから、当館の李貞鎬館長の人脈をたどり、丹波や京都市内に住んでいる、マンガン鉱山にかかわった在日朝鮮人約30人と、日本人約10人を訪ね歩き、貴重な話を数多く聞いた。ここに掲げた写真の人々は、その一部である。
写真・中山和弘 文・田中宇 取材・李貞鎬、大西正彦、李龍植
丹波盆地には約300ものマンガン鉱山がありました。
何故300もの鉱山が掘られたかというと、マンガンは鉄に混ぜると鉄を固くする力がある鉱物であるということが理由といえる。
古代朝鮮から渡ってきた渡来人は海流にのって流れついた砂鉄を取って鉄を作ったが、その中にはマンガンやチタンが入っていたので固くて錆びにくい刀ができた。その後は豊臣秀吉の朝鮮侵略によって強制連行された陶工により伝えられた陶磁器につける、ゆう薬や瓦のゆう薬やマッチ・ガラスの着色といったもので、いずれも使用量は少なくて済むものだけに使っていたが明治時代より日本が侵略戦争を起こすと、鉄の需要が飛躍的に増え砂鉄から取る鉄では到底足りなくなり、鉄鉱石を鉱山から掘りださなくては足らなくなりました。しかし鉱山の鉄鉱石はほとんどの場合マンガンが入っておらず、マンガンを別に掘らなくてはならなくなりました。そこで日本のマンガンの三大産地のなかでも、日本一といわれる丹波盆地のマンガン採掘が行われました。鉄にマンガンを入れなければ、折れやすく削れやすい鉄しか出来ない。普通の一般的な鉄は、3%~8%の二酸化マンガンでよいが、戦争に使う方針やキャタピラーや固い鋼鉄を作るためには炭酸マンガンが25%から35%のマンガンを必要とした。しかも、その主となる鉄も需要の7%を供給したにすぎない。
そしてマンガンの不足から溶鉱炉の火が消えるとまでいわれ、戦争ごとにマンガン集めに狂奔することになったが、鉱物資源の少ない日本は、鉱山の労働者数は戦争の激化に伴う成人男子の徴用により極度の労働力不足に陥った。一説では鉱山労働者だけで100万人不足したといわれ、しかも戦争時の鉱山の採掘は人力に頼る所が大きくほとんど、人海戦術の鉱物採掘がなされた。
労働力不足を補うため朝鮮人や中国人を強制連行して働かすという事になり石炭だけでも19万にも及ぶ中国人、朝鮮人が、働かれ、鉱物の少なさを低品位の鉱物を大量に掘ることにより補おうとした。マンガン鉱山に直接、強制連行された人達も多くいました。
丹波でもマンガン鉱山は約300もあったと記録があるが、マンガン不足の為、勝手に届けずに掘っていた鉱山も無数にあった。そして3000人の朝鮮人や部落の人の労働力が充てられ国策としてマンガン採掘が行なわれ日吉町という所には陸軍のマンガン集鉱所の帝国マンガンがあった。
日本にいる人は、ほとんど募集で来た人だという人もいるが、日本の陸軍の命令で役場より募集の通知がきても、行かなくて良いかというと、日本に行かないと後で憲兵が来て、家族を連れて行き拷問にかけるので結局行かざるを得ない。それは強制連行と同じというのが李貞鎬初代館長の持論なのだが、日本では強制連行を減らす為、募集連行という。
日本での鉱山労働は、たぬき掘りと呼ばれる小さな穴で高さ60cm幅30mの穴に寝ながら入って70kgものマンガンを中腰で担いで、外へ運びだした。外へ出したマンガンを朝鮮人が一人で300kg担いで、外へ運びだした。ボッカ(荷物運び)をしたが、重い荷物を担ぎすぎて肩の皮がむけ膝が曲がらなくなってしまい、大便も立ってしたという。
昭和30年、鉱物は輸入自由化となり、日本のマンガン鉱山は潰れたが、その後は、じん肺という肺に石が刺さる病気が残り、部落の人など一家で三人もじん肺患者が多数出ているが、誰も救済しない。日本政府の責任はここにも残る。
又、地質・マンガン・鉱山を勉強に来られますが、私達はこれを作ろうと町に補助を求めた時、前京北町長は金や銀なら良いがマンガンなど誰も知らない鉱物だし見学者は来ない。又、部落や朝鮮人の働いた歴史など暗いイメージで町のイメージが悪くなると協力せず逆に邪魔をして妨害しました。しかし、丹波盆地ではマンガン鉱山は90年続いた基幹産業であり文化であり、朝鮮人や部落の人が働いた事は歴史の事実なのです。暗いイメージを隠す、臭い物にフタと言うのではなく歴史を直視し正面から見る事こそ人権を学ぶ場になると思い、丹波マンガン記念館をつくりました。是非とも御高覧下さい。
・日吉のマンガン鉱山のこと
日吉のマンガンは古くから採掘され、昭和5年から30年の最盛期には千人ほども鉱山労働者がいた。日吉町の人がそのうち8割ぐらいを占め、戦争中は遠く朝鮮からの徴用者もいたという。千人からの鉱山といえばそう小さい鉱山ではない。こんなに多数の患者が出るような労働衛生管理の怠慢が、いくら戦時下とはいえ、どうして許されていたののだろうか。それは、日吉のマンガンが鉱脈上ではなく塊状であることに因っていた。
京滋じん肺患者同盟日吉支部の現会長(三代目)上段さんが、問診室であれこれと来所者の面倒をみたり、声をかけあったりの合間に、当時を思い出しながら話してくれたところによると、
日吉のどの山を掘ってもマンガンが採れたし、当時の金で二百円もあれば採掘権から山主への損料を払っても鉱山主になれた。その頃の1日の日当が80円ぐらいだったかる、ちょっと気張って貯めて現に上段さんも採掘権をとって掘った時期もあったという。多くの鉱山師(やまし)が入りこみ、良い山を当てると人を五人、十人と雇って大儲けした。鉱山に働いた人の大部分は、そういう親方に雇われて働いた人だった。つまり千人といっても、個人から十数人という零細事業所で、労働衛生の自主管理も監督も無に等しかったのである。
一つの鉱区を掘り尽くせば次々と別の場所を掘るといふうで、いわゆる”たぬき掘り”と称する、直径1mそこそこの、かがんで入れる程度に掘り進みながら採掘するのがふつうだっという。
・健康を害した労働の実態
タガネを打ち込むと鉱石と粉塵が飛び散りそれを吸いながらまた掘り進む。発破(ダイナマイト)をかけて外に逃げ、爆発が終わると、粉塵が収まるまで待てず、ちょっと一服ぐらいですぐ入りもうもうたる中で働く。
「ハッパは夕方かけるように段取りはしてやってますけどなあ、そんなことばかりうまいこといかしまへん。待てばいいんやけど、何時間も待てん。よけい掘れ掘ればかり言われるし、掘ればカネにもなるしでね」
マンガン鉱は昔は主に乾電池用に電気会社などに売れていたが、鉄の粘潤度を増すのに必要となり政府は奨励金をつけたり、徴用を免除したり、お国の為だと強要したりして、増産につぐ増産を迫ったのである。戦争のつけはここにも残っていた。
そのうち、動力でダダダダと掘り進む「削岩機」が登場する。これもまたもうもうたる粉塵が発生するため、従事者は防塵マスクを付ける規定になっている。しかし、昔私がいた、保安衛生管理の厳しかった鉱山でも、保安係の巡回時刻だけマスクを付けあとは外して働くのが公然の秘密のようになっていた。「あんなもの付けて仕事にならん!」と労働者が言ったのは能率給のゆえであったろうし、現場主任が言ったのは押しつけられる増産目標のゆえだったのであろう。上段さんは語る。「私らじん肺ちゅう言葉は知らしまへん。昔から’よろけ’言うて。でも健康には自信があったし、ちっとは気をつけて働きもしたが、『掘れ掘れ』に追いまくられたし、マンガンがこんなに恐ろしいもんやちゅうことは知らしまへん、親方も、マンガンは人間の体に必要なもんで、薬になるちゅうて、しゃぶったりしたもんもあるほどでね」
削岩機の導入や機械化で能率が向上し役所も親方もホクホク。労働者はいくらか懐が豊かになったかもしれないが肺がとり返しのつかない障害に侵されていたのである。「削岩機使っとった人はもう早うに、若い時分に病院で死にましたがね」と上段さん。
そして終戦。やがて復興期。高度経済成長を支える鉄鋼業の需要に、再び日吉マンガンは戦争中さながらの増産が続く。「お国のために」に代わって、「祖国復興」「所得倍増」の政策スローガンが人々をやみくもに働かせた時代である。
しかし、昭和30年代後半から貿易の自由化を迫る経済外圧が日本に集中し、自由化されたマンガンの輸入によって、40年にはほとんど閉山に追いやられた。そして十数年が過ぎた。今では、輸入マンガンを精錬して袋に詰め、値よく売れる’日吉マンガン’として売っている会社が昔日の名残りを止めている。その袋詰め作業をしていたまだ若い労働者が最近、マンガン中毒で亡くなった。袋詰めも粉塵の立ちこめる作業現場である。そのことがあってから、工場では塀をめぐらして外からは見えないようにしてしまったという。
山陰線 殿田駅
日吉町殿田はかつて、マンガン鉱石の集散地だった。戦前は乾電池の材料になる二酸化マンガン、戦後は鋼鉄の原料になる炭酸マンガンを中心に、駅前にある大手鉱山各社の選鉱場に集め、貨車で送り出した。
1950年代の最盛期には、鉱石バイヤーどうしでしょっちゅう貨車の奪い合いをしていた。駅前には料亭旅館が立ち並び、昼間から大手鉱山会社の幹部が飲めや歌えやの騒ぎを繰り広げていたという。今はすでに昔の面影はほとんどなく、ひっそりとした町並みが残る。だだっ広い駅の構内が、マンガンを山積みし、山師たちで賑わっていた往時の様子を、わずかに思い出させる。
・鄭 甲千さん 1918年慶尚南道生まれ、在日1世。日吉町殿田在住。
筑豊炭鉱に募集で来たが、落盤で肩に大怪我を負い、クビになって大阪へ。その後、和知町の鐘打鉱山(ニッケル)に入り、強制連行された100人以上の朝鮮人とともに働く。戦後、マンガン採鉱をした。
「人生いいこといっぺんもなかった。炭鉱で怪我したら、治るか治らんうちに病院から出てくれと言われた。だけど、生きているだけましや。ガス爆発でいっぺんに10人死んだときもあったから。マンガンも、親方がもうかるだけで、こっちは日当もらっておしまいやった」
・李 徳南さん 園部町在住
マンガンを掘るために来た夫を追って、1930年ごろ、朝鮮から丹波へ。夫はマンガン採掘を約30年間続けた後、じん肺と肺がんを併発し、1986年に亡くなった。
「亀岡、殿田、山家、大野、滋賀県、行かんところがないほどあちこちの鉱山へ行ったが、5人の子供がいて、生活は楽ではなかった。おっさん(夫)は病気で、苦しい、苦しいと言いながら、亡くなった」

・金 甲善さん 1922年全羅南道生ま、在日1世。美山町安掛在住。
1943年、亀岡市の大谷鉱山(タングステン)に、強制連行で来た。8ケ月後に逃げ出し、美山町に来てマンガンや土方の仕事をした。「戦後、朝鮮戦争で故郷に帰れなくなったが、帰っていたら死んでいた(だろう)。村は戦場になって全滅し、家族は、弟一人を残して皆、亡くなった。
韓国の村に日本人が着て、若者を強制連行した。「息子を連れて行かないでくれ」と、母親が日本人に泣いて頼んでいたが、日本へ連れていかれた。

・李 鐘秀さん 韓国普州大谷面在住
大谷面の村に日本軍が大勢来て、米や家財道具やあらゆる物を奪って行った。大谷面の近くに飛行場が作られ、多くの韓国人は強制連行され連れて行かれた。丹波のマンガン鉱山へも強制連行され、丹波の鉱山で背負子(チゲ)で200kg~320kg(50貫~80貫)のマンガンを背負い5時間も運んだ。
しかし給料は2年間1円も払われず、終戦で引き揚げた日本人が朝鮮人に酷い目にあったので、日本に居る朝鮮人を殺しに来るという噂が流れ、命からがら韓国に帰国した。
大谷面の村からは炭鉱へも多く連れて行かれたが、半分くらいは戻って来なかった。
・金 載錫さん 1917年慶尚南道生まれ、在日1世。福井県大飯郡大飯町在住。
17歳で、朝鮮から大阪の知人の工場へ働きに来た。空襲が始まるかもしれないため、1942年に親戚がいた大飯町の犬見鉱山(鉄)に移った。強制連行で来た、数百人の朝鮮人とともに働いた。戦後は渡船旅館を経営している。
「訓練隊(強制連行者)は、逃げられないよう、湾の向こう側の飯場に住んでいた。日当は私のような自由人夫は10円、訓練隊は5円だった。仕事は私らがトロッコ押し、訓練隊は採掘で、私らのほうがきつかった」

館内の労働者の証言はこちらのブログも詳しい。
京北と美山の境の掛橋鉱山
<強制連行された大谷面の村人は奈良へも強制連行された>
1989.12.1 京都新聞 ある日じん肺とわかって 危険な作業は朝鮮人だった
12.2 同 被差別部落にもツメ跡残す
・済州抗日記念館
朝天萬歳運動 19193.21から24日まで朝天地域で行われた万歳運動。その後、済州全域に広がる抗日運動の母体となりました。
法井寺抗日運動 1918.10.6,7に行われ3.1運動以前では最大かつ短期間の闘争です。法井寺の僧を中心にした仙道教の教徒や地域住民など400余名が中文駐在所を襲撃し、放火、全焼させたりしました。帝国主義日本とその経済侵奪に対する済州島民の抗日闘争であり、国権回復運動です。

・西大門刑務所歴史館
西大門刑務所歴史館は3.1独立運動の義兵や参加民衆を収監する為に1909年に日本(朝鮮総督府)が急遽、作った刑務所である。
3.1独立運動に参加した柳 寛順 1919年他の運動家と当時はあった地下の独房に入れられた。「私は韓国人である。なぜ、あなたたち日本人に裁かれなくてはならないのか」と言い判事を非難したが同年6月懲役2年の刑を言い渡された。
獄中でも、毎日「大韓独立万歳」と叫んだので看守から拷問を受け獄死した。
僅か16歳の少女を死ぬまで拷問したとして、柳は韓国では、韓国のジャンヌ・ダルクと言われソウル市内に銅像が建てられている。
その他には日本軍の行った、ありとあらゆる拷問道具が遺されている。唐辛子を入れた水に逆さづりをして水攻めにしたり指を固定しておいて爪の間に針をさしたり電気を流す装具、等これほど多くの拷問道具を人間が考えられるのか、と感心する。

・丹波マンガン集鉱所分布図 (初代館長作成 日吉駅前分布図)
丹波地方で採掘された各鉱山の二酸化マンガン鉱石は、各集鉱所に集められ、選別工程をへて、ユーザーの要求規格に調整混合され、山陰本線殿田駅から出荷した。炭酸マンガン鉱は、殿田駅のホームに直行し出荷した。殿田駅より発車されたマンガン鉱石は、日本一の良質鉱として、各ユーザーは安心して荷受けした。尚、特に繁栄した時代は、昭和10年頃から、昭和45年頃迄であった。
周辺の鉱山(南丹市日吉、美山、京都市右京区京北)
(京丹波町)
(亀岡市)

旧朽木村(滋賀県高島市朽木)
・韓国 独立博物館(天安独立記念館)
7つの博物館に分かれていて全部は1日では見れない規模である。近代の展示では日本の侵略に抵抗し、ろくな武器を持たずに農民が蜂起し後に公開処刑や拷問の末、亡くなっていった東学農民党の戦闘シーンのジオラマや100万人規模の日本軍へのデモの「3.1運動」やそのデモで日本軍に捕らえられた朝鮮人が、さらし首で街頭に吊るされている写真や日本軍に捕らえられた朝鮮人の拷問の様子をロウ人形を使って表現している。ロウ人形は日本軍兵士が焼きゴテを当てたり、うずくまって、やっと入れる木箱の中には針が無数に突き出ていて動くと、針が、ささるようになっている拷問や無理やり水を飲ます拷問や空中戦と名づけられ空中に吊るして叩く、しかもその叩く棒には糸が巻きつけてあり叩くと痛いし意図が皮膚に巻き付きて皮膚を剥がす拷問などが、等身大のロウ人形が、うめき声をあげながら展示されている。一番びっくりしたのは、実際に移築したものだが壁に丁度、立って入れる棺おけ位の、へこみの壁があった。なんだろうと思い覗き込むとお化けのような人間が覗き窓に浮かびあがる仕掛けになっているのだ。つまり、この拷問は棺おけ位の壁のへこみに、朝鮮人を1カ月くらい身動き出来ない状態にして放置するという。入れられた人は、ほとんど気がふれてしまったそうです。
その他にも目を覆うばかりの残忍な拷問や日本軍の残していった日本刀など韓国の独立博物館に行くと置いてある。
・日本の主要人物による日本軍「慰安婦」関連の妄言
・日本の歴史修正主義関連年表
資料館の土産物コーナーに初代館長の奥様がおられ、少し話をした。記念館を建てた李貞鎬さんは「じん肺」を患い、亡くなったことを何度も強調されていたのが強く印象に残りました。この記念館は鉱山の坑道を生かして見学ができ、かつ朝鮮人の強制連行の歴史や近現代の鉱山史も勉強できる日本国内でも数少ない博物館です。地元自治体や京都府は補助金を入れるなどして支援をお願いしたい。万博に巨額の税金を捨てるくらいなら、このような地元の博物館に目を向けてほしい。
























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