もうひとつの沖縄戦~波照間島マラリア地獄
http://kyoto-getto.hp.infoseek.co.jp/okinawa/war/war2/war2j.htmlより引用。
本島の激戦地から遠く離れた八重山でも、本島で繰り広げられた地上戦とはまた違った形で住民の命が奪われる事件が起こっています。
これが日本で人が住む島の中では最南端の島・八重山は波照間島で起こった「もうひとつの沖縄戦」です。
この波照間島も含めた八重山地方は、いまにも台湾に手が届こうかという、そういうところに位置しています。この八重山地方では艦砲の被害こそ少なかったとはいえ、戦時中に多くの犠牲者が出ました。そのほとんどは飢えとマラリアだったといいます。
波照間島では、突然現れた一人の本土からの転任教師によって波照間島の運命が大きく変えられていきます。
この教師は山下虎雄と名のりました。この男、住民にとって謎の存在でしたが体格もよく、当初は頼りがいのある存在だったようです。しかし、米軍の慶良間上陸の時期に出された波照間住民の西表への疎開命令あたりから彼は住民に牙をむくようになります。疎開を拒否する住民に刀を振りかざして恫喝し島民全員を西表島に強制疎開させたのでした。島の見える位置にと希望し、西表島の南東海岸の南風見に多くの島民が駐留することになりました。
しかし、この地域はマラリアの発生地帯でもありました。住民は次々とマラリアに倒れていきました。マラリアは蚊を媒体にする伝染病で、震えと高熱が交互に訪れ、髪の毛は抜け落ち、体力の消耗とともに命を落としていく恐ろしい病気でした。マラリアという波照間島にはなかった病気で多くの波照間住民が故郷を思いながら命を落としていきました。
しかもこの山下は住民に対して容赦なく暴力をふるい、命を落とすものもありました。日本が敗戦を迎える頃、住民の抗議によりようやく故郷に帰ることが出来た波照間住民はしかしマラリアの病気まで持ち帰ってしまったのです。帰省後さらに多くの人々がマラリアに命を落としていきます。毎日のように出るマラリア犠牲者をの葬式を行いました。当初は棺に入れ、きちんと埋葬されていましたが、死者の数も日に日に多くなり砂地に埋葬するのがやっとの状況でした。
こうして波照間の島民の3分の1がマラリアで命を奪われていったのです。波照間島の校長が石に刻んだ「忘勿石」はいまでも西表島の住民疎開の地域に刻まれています。
山下は沖縄の日本軍の指揮官牛島より直接命を受け、沖縄離島のゲリラ隊育成の使命を帯びた秘密工作員だったのです。この西表島への謎の疎開も敵のかく乱作戦の一部だったようです。このように本来落とさずにすんだ命がこうして無意味な作戦のなかで奪われていったこと、それが「もうひとつの沖縄戦」の実相だったのです。(引用終わり)
参考:終わらない戦争
―強制疎開マラリア事件・補償問題から歴史改竄までの経過―
http://www.kt.rim.or.jp/~yami/hateruma/mararia.html



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