天皇の戦争責任を問う意見広告は
週刊金曜日656号(2007.6.1)貧困なる精神326より引用。天皇の戦争責任を問う意見広告は–原寿雄さんと語る「ジャーナリズムとマスメディア情況」4
・(原)そう、ドイツは時効なしでやっているわけだから、日本だって時効なしでやるべきだという議論は当然ある。そうすると、天皇を戦犯裁判にかけようという広告の問題は、現実離れしているような話だけれど、理屈からいえばまだ議論すべき余地があるということでもある。しかし、今もやっぱりできないのは、なぜだろう。昔は右翼を怖がって天皇や皇室問題は批判をしなかった・・・
(本多)実際ほとんどの理由がそれじゃないか。
(原)けれども、『朝日』が二〇〇一年八月一五日の社説で初めて、天皇は陸海軍の統帥であって戦争責任は免れない、というほかはあるまいと、戦争責任をはっきり認めたんだ。僕はそれに注目して、日本の一般新聞で社説にはっきり書いたのは初めてだと思ったので、一〇日ぐらいたってから、どういう反応があったかー投書とか右翼の抗議とか、右翼の街宣車が社の前に来て怒鳴ったとか、何かそういうことはなかったかと、『朝日』の二~三の方面に聞いたんです。広報にも聞いたし、現役記者にも聞いた。そうしたら何もないというんだね。ということは、右翼が何も抗議しないようなテーマだったということなんだ。つまり、昭和天皇の戦争責任など卒業しちゃっていたんだね。だから、僕はそのことのほうにニュース性を見出したくらいだ。
(本多)同感ですね。いやこれは記録しておくべきですよ。
・(原)企業内記者の存在意義で、二〇〇五年から今年にかけて、いまの若い記者の中に僕らができなかったようなことまで、きわめて自然体でやっている記者がでてきていることを非常に感じている。
–(引用終わり)
引用記事の著作権は『週刊金曜日』および本多勝一さんにあります。
朝日 2001年8月15日社説?(各社社説かの真偽は検証しておらず不明なのであしからず)
http://natto.2ch.net/mass/kako/997/997823489.html2ちゃんねるより引用。
■歴史に対する責任とは――終戦記念日・2001年夏
「靖国」が問われている夏、56回目の終戦記念日がめぐってきた。
正午の時報とともに、道行く人々が歩みをとめ、黙とうをささげる。そんな光景も、昨今はめったに見られない。
街角には携帯電話で友人と話す若者の楽しげな笑い声がある。成田空港や関西空港は、家族連れで海外のリゾートに脱出する人たちでごった返している。
平和ニッポンの風景である。
戦争の悲惨さを体験した世代ならば、平和のありがたさ、尊さがよけいに胸にしみることだろう。日本の平和と繁栄は、先の大戦の痛ましい犠牲の上に築かれている。そのことに、だれも異論はあるまい。
では、その犠牲者はだれなのか。
□ □
日本にも多くのファンがいる侯孝賢(ホウシャオシェン)監督の台湾映画『悲情城市』の冒頭、ラジオから雑音まじりに聞こえてくる昭和天皇の「玉音放送」に、台湾のやくざがじっと耳を傾けるシーンが出てくる。
45年8月15日、戦争終結を告げる放送は日本本土にだけ流れたのではない。国策放送の東亜放送協議会などにより、短波に乗って、当時の中国占領地や満州、朝鮮、台湾、南方地域にも放送された。
それは「大東亜共栄圏建設」という美名のもとに、アジアを侵害し、人々を殺りくし、強制連行し、協力を強いた軍国日本の一方的な破たん通告でもあっただろう。
そうした他国の犠牲に深く思いを致すことなくして、日本はいかなる戦後の出発点に立ち得たというのだろうか。
旧日本軍・軍属の戦死者約230万人、空襲などで亡くなった民間人約80万人。合わせて約310万人――。
63年に始まった政府主催の全国戦没者追悼式で追悼の対象となる人たちである。
戦死した朝鮮半島や台湾出身の元日本兵たちも、その中に含まれている。93年の細川護煕首相から、追悼式に参列する歴代首相がアジアへの加害責任にも触れることが「ならわし」になってもいる。
だが、追悼式に流れる主旋律は、あくまで内向きの自国民中心主義である。戦争被害への補償についても同様だ。
「約1兆円」と「約41兆円」。戦後、日本政府がフィリピンなど28カ国に支払った賠償金の合計と、日本人の旧軍人・軍属やその遺族らに支払った恩給などの累計との対比に、それは歴然としている。
「サンフランシスコ講和条約と、その後の2国間の賠償協定によって戦後処理問題は決着済み」と政府はいう。なのに戦後半世紀以上がたっても、日本の過去を責め、道義を問う声はやまない。
戦後の原点に立ち返るとき、どうしても避けて通れないのは、昭和天皇の戦争責任をめぐる問題である。
□ □
満州事変に始まる15年戦争について、天皇はあるときは軍部の暴走をたしなめ、あるときは軍部の動きを追認した。そのあたりの事情は微妙だ。
だが、陸海軍を統帥し、すべて天皇の名において「皇軍」への命令が下されたことを考えても、やはり天皇の戦争責任は免れない、というほかあるまい。
戦後の東京裁判では、米国の占領政策の思惑もあって、天皇は免責された。国民の多くは、代わりに少数の戦犯が罪を負うことを「だれかが貧乏くじをひくのは仕方ない」と受容し、戦争責任や戦争協力を自らの痛切な問題として引き受けることを怠ってきたのではなかったか。
「国家の最高位にあった人物がつい最近の出来事に責任を負わないで、どうして普通の臣民が自らを省みるか」(ジョン・ダワー氏、『敗北を抱きしめて』)
米国の歴史家のこの指摘に、わたしたちはどんな答えができるだろう。
食べることに必死の時代だった。戦争の記憶を振り払うかのように働き、高度成長を遂げ、行き着いた先がバブルだった。そして、その後始末にもがいている。
90年代の「失われた10年」は、成功と繁栄をひたすら追い求めてきた日本が陥った空洞でもある。あの自滅戦争の教訓と戦後の来し方を国民一人ひとりが見つめ直し、記憶を語り継ぐ。そのことなしでは、この国の未来は、夏の逃げ水のように頼りないものになりはしないだろうか。
過去を謝罪し続ける日本は卑屈で自虐的だ、と反発する声がある。歴史の事実に目を閉じ、自己犠牲という美しく気高い「国民の物語」を夢想する人たちがいる。
しかし、民族的な自尊心に力みかえった結果がどうであったか。「殉国」を美化する風潮が何をもたらしたか。それは歴史が教える通りだろう。
「過去の歴史の克服」は道義の問題にとどまらない。日本だけが問題を抱えているのでもない。国際社会の共同利益に資する作業なのだ、という視点を持ちたい。
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「古い葉が落ちて新しい芽が出るのではない。新しい芽が出ることで、古い葉が落ちるのです」
外務事務次官や韓国大使を務めた須之部量三さん(83)はそう話す。
来年は日韓共催のサッカーのワールドカップが開かれる。両国の理解と友情を深めるまたとない機会だが、教科書問題などをめぐって関係は冷え込んでいる。古い葉が新しい芽が出ることを邪魔して、歴史の歯車を逆戻りさせてはなるまい。
心を開いて他者と共生する道を探る。
それは、比類のない「戦争の世紀」であった20世紀を生きてきた日本人の、歴史と自分自身に対する責任でもある。
読売2001.8.15社説
[終戦の日]「戦没者追悼は平和への誓い」
【靖国境内での式典も】
世紀が新たになっても、「あの戦争」のことを忘れてはいけないだろう。今日は、すべての日本人が、「あの戦争」の犠牲者たちを追悼する日である。
政府主催の全国戦没者追悼式は、最初から終戦の日の八月十五日だったわけではない。式典会場も、日本武道館ではなかった。
第一回は、サンフランシスコ講和条約が発効して日本が国家主権を回復した直後の一九五二年五月二日、新宿御苑で開催された。
それまで日本を占領行政下に置いていた連合国軍総司令部(GHQ)が、戦没者追悼を許さなかったからである。
いわば、独立を回復した日本が真っ先に主権を行使したのが、戦没者への追悼式典だった。その後、追悼式典は日比谷公会堂や、靖国神社境内で開催された年もあった。
式典の日や場所が変わっても、戦没者への追悼が平和への誓いでもあったことには変わりない。これからも変わらないだろう。
今年は、歴史教科書問題や小泉首相の靖国神社参拝問題もあって、中国、韓国などからは、例年以上に、日本の「戦前復帰」「軍国主義への道」といった声が聞こえてくる。
だが、普通の日本人には、軍国主義の復活や近隣諸国への再侵略など、およそ想像もできないだろう。
たとえば、戦前の軍部暴走を招いた大きな要因に、「統帥権の独立」という明治憲法上の問題があった。現在では、そんな問題が生じる可能性など、まったくありえない。
まして、現在の日本にとって、近隣に再侵略などしても、いかなるメリットもない。そんなことは、どんな日本人でも考えるまでもなく知っている。現在の日本は、平和な国際環境下での通商に依存することによってしか繁栄を維持できない国である。
戦没者追悼が平和への誓いと一体となるのは、ごく自然な成り行きだ。そのことを、近隣諸国にもよく理解してもらわなくてはならない。
【“誤解”を増幅するな】
問題は、そうした日本の現実について近隣諸国の理解を求めるどころか、逆に近隣諸国の“誤解”を増幅したがる動きが日本国内にあることだ。
歴史教科書問題では、一部のマスコミが「偏狭なナショナリズム」という言葉を多用し、中国、韓国の反日感情を煽(あお)った。それに同調し、わざわざ、中国へ出掛けて、日本国内の動きに懸念を表明した政治家もいる。
中国こそ、最も強烈なナショナリズム教育を推進している国の一つである。しかも、共産党イデオロギーに基づくただ一つの歴史認識しか存在を許さず、公営マスコミしかない国だ。
そうした中国に向かって、日本の「偏狭なナショナリズム」の可能性について懸念してみせるなどというのは、まことに滑稽(こっけい)な構図である。
もちろん、かつての日本が、中国に対する侵略行動で多大の被害を及ぼしたことも忘れるべきではない。平和への誓いには、そのことへの反省も込められて当然だろう。だが、だからといって、過去の歴史について、すべて中国の解釈に従わなくてはならない、ということにはならない。
【定まらぬ戦争の呼称】
日本国内の現実の状況が示すように、思想・信条の自由を基本的価値とする社会の歴史の解釈、歴史認識というものは、きわめて多様なものだ。
たとえば日本では、いまだに「あの戦争」「先の大戦」をめぐる呼称についてさえ、国民的なコンセンサスが成立していない。
その呼称をどうするかについては、さまざまな議論、反論がある。
十五年戦争……不正確で、かつ歴史実態をなにも語っていない。
太平洋戦争……日中戦争が落ちてしまう。太平洋戦争という呼称は、GHQによる厳しい言論統制によって強制された結果にすぎない。
アジア・太平洋戦争……アジア全域が戦場だったわけではない。それに当時の東アジアは、中国とタイを除けば、すべて欧米の植民地=領土で、「アジア諸国」など存在しなかった。
第二次世界大戦……ヒトラーの戦争は当初、欧州大戦にすぎず、日本の真珠湾攻撃、米国の参戦により世界大戦になったのであって、日本の「あの戦争」全体を表すことは出来ない。
大東亜戦争……対米開戦後、当時の日本政府が日中戦争を含めて定めた呼称だが、軍国主義当時の忌まわしい記憶がまとわりつく……。
あるいは別の呼称も考えられるかもしれない。
いずれにしても、戦争の呼称さえ定まらないということは、まだ「あの戦争」を、日本全体として総括できていないことを示しているともいえる。
平和への誓いとともに、「あの戦争」についての国民的総括に努めたい。
毎日同社説
終戦記念日 戦後の原点を考える日に
21世紀最初の終戦記念日を迎えた。
東京の武道館では、今年も天皇・皇后両陛下、首相、衆参両院議長、最高裁判所長官、遺族代表らが出席して全国戦没者追悼式が行われる。
正午の時報を合図に、甲子園で熱戦を繰り広げている高校球児や観客たちが、試合や応援を中断して1分間の黙祷(もくとう)をささげる姿は、いまや夏の風物詩として、すっかり定着した。同時刻に全国の家庭、職場、リゾート地で沈黙の時間を共有する人は多分、数百万人に達するだろう。
追悼式には両陛下、三権の長、各界代表が参列することが慣例になっており、今では最も格式の高い式典になっている。直接、間接に参加する人数の多さから、一番規模の大きな国民的行事と言ってもいいだろう。
だが、政府主催の追悼式が行われるようになったのは終戦から18年たった1963年からだ。「国のために死んだ人を公に追悼すべきだ」という意見は終戦直後からあったが「侵略に加わった将兵に国として哀悼の意を表するのは問題」という意見も根強かった。根底には戦前の体制や戦争に対する見方の違いという越えがたい溝があったことは言うまでもない。
それを「戦争によるすべての犠牲者」を対象にする形で歩み寄って、政府主催の式典を開くようにしたのが全国戦没者追悼式だ。
祈りの場はできた
黙祷のとき、戦死した肉親や友人をまぶたに思い浮かべている人も多いはずだ。空襲や機銃掃射で命を落とした人、栄養失調や薬剤不足で亡くなった人を思い出している人も少なくないに違いない。戦後生まれが70%を超えた今日、具体的な個人を思い浮かべることができない人が多くても不思議はない。それでも戦争犠牲者に哀悼の意を表すという共通の思いで式典は続けられている。
今日、全国戦没者追悼式に真正面から反対している人は、ほんの少数者になった。互いの主張を抑え、共通の祈りの場を作り上げることができたのは、戦後民主主義の大きな成果として誇っていい。
だが「8月15日」は戦争が終わった記念日だけでない。実は戦前とはまったく違う価値観で国づくりを始めた出直しの日でもある。 56年前の7月発表されたポツダム宣言は「軍国主義」を世界から駆逐することを鮮明にし(1)戦争犯罪人に対する厳罰(2)民主主義的傾向の復活・強化(3)基本的人権の尊重――など、戦後の日本が進むべき道を明示していた。さまざまな議論の後、日本の指導層が国の意思として宣言を受け入れたのが8月15日だった。
そして、多くの民主的改革や東京裁判を経て、50年前の9月、サンフランシスコ講和条約で、ようやく日本は国際社会に復帰した。 調印式で演説した全権代表の吉田茂首相は「相共に世界のデモクラシーと世界の自由を前進させる覚悟を持つものであります」と強調している。これは、日本が軍国主義と決別し、世界の共通の価値観となった民主主義や人権を尊重する国として国際社会に協調して行くことを宣言するものだった。
日独が孤独な戦いを続け、やがて連合国に占領されている間に、世界は劇的に変わっていた。終戦間近の45年6月、連合国の代表はサンフランシスコに集まって、戦後の世界秩序について話し合っている。そして「二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救」うため、共同して世界の平和と安全の維持に当たることを定めた国連憲章を採択している。
そこで確認した共通の価値観とは「基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小国の同権」の原理だった。さらに48年12月の国連総会は「世界人権宣言」を採択して、人権を世界共通の価値観とすることを確認している。反軍国主義、反全体主義こそ戦後秩序の原点になったのだ。
日本は講和条約に続いて56年に国連にも加盟している。国連憲章53条には日本やドイツを敵国と定めた条項がある。それにもかかわらず日本は進んで加盟を希望し、国連も日本の加盟を承認した。そこには、日本はすでに軍国主義、全体主義と決別し、民主主義国として生まれ変わったという共通認識があったのだ。
民主主義と人権の出発点
もちろん日本は追い詰められてポツダム宣言を受諾せざるを得なかったという見方がある。だが、戦争を仕掛けたのは日本であり、いずれ結末をつけなければならなかった。それに日本の選択が間違っていなかったことは、戦後世界第2の経済大国に発展したことからも明白だ。日本こそ民主主義と人権を共通の価値観とする戦後世界の最大の受益者になった。
小泉純一郎首相の靖国神社参拝が、中国や韓国だけでなく、欧米諸国でも注目を集めたのは、日本の出発点、換言すれば世界との共通の価値観の部分で疑念を持たれたからだ。
「8月15日」の持つ2つの意味のうち、戦争犠牲者を追悼する面で、私たちは共通の場を作ることに成功した。国立墓苑構想も政府が明確な意思を示せば、実現はそれほど難しくないだろう。
一方、国際社会で生きていく原点を確認する日という意味で十分な成果が上がっていないことを示したのが、首相の靖国神社参拝騒動だった。国内はもちろん、国際社会からも、いまだ疑いの目を向けられていることを私たちは直視しなければならない。その象徴が戦後56年たっても残っている国連憲章の敵国条項だ。
国際社会で名誉ある地位を保持するには、何をなして、何をしてはならないか――終戦記念日を過去だけでなく、未来を考える日にもしなければならない。
産経同社説
主張 悲観主義からの脱却を
【終戦記念日】立て直しの視点こそ肝要
バブル経済の破綻いらい、日本は不安と自信喪失の悪循環に陥っている。「失われた十年」という自嘲的言辞に象徴されるように、それもかなり重症のペシミズムに侵されているようにみえる。しかし、翻って考えてみて、いったい何が失われたのだろうか。経済成長? 対外信用? それとも?
≪失われた十年なのか≫
失ったものなど全くないといえば強弁になろうが、この傷つきやすい悲観主義は日本人特有の内罰的妄想に過ぎないのではないのか。今こそ「失われた十年」に非ずして「立て直しの十年」と捉えるぐらいのタフ(強靭)な構えと開き直りがなければなるまい。
今日の光景は昭和二十年の八月十五日の荒涼たる虚脱の世界ではない。耳を澄ませば二十一世紀への新たな日本の秩序再建に向けての槌音が捉えられるはずである。時計の針を十年ほど前に戻してみると、年表にはパラダイム(枠組み)転換をもたらした三つの歴史的事象がいや応なしに目にはいってくるであろう。
一つは一九八九年(平成元年)のベルリンの壁崩壊から一九九一年のソ連邦解体にいたる「東西冷戦」の終結であり、その二は一九九一年の「湾岸戦争」、そして第三が一九八九年の「昭和天皇崩御」である。
この時期はたまたまバブル崩壊と重なった。それゆえに「失われた十年」という悲観主義につながっていったのは理解できないわけではない。
しかしながら、社会思想史的にみれば、バブル崩壊よりも九〇年前後の事象の方が日本人に価値観の転換を促すという意味において遥かに大きな影響を与えたといって過言ではない。
この三つの事象は五十五年前の「ポツダム宣言」(一九四五年)「極東国際軍事裁判」(一九四六-一九四八年)「鉄のカーテン」(一九四六年)に比肩しうる出来事であった。
昭和二十年直後の事象が戦前からの日本の価値観を一転させたものだったとすれば、九〇年前後に起きた三つの事象はその戦後価値観をさらに一転させるほどの衝撃性を残したとみることができる。
具体的にみてみよう。「ポツダム宣言」には「平和、安全及び正義の新秩序」建設が謳われ、その設計図として「民主主義」「自由」「基本的人権」などの尺度の導入が盛り込まれている。同時に「戦争犯罪人に対する厳重な処罰」をもとめ、「極東国際軍事裁判」(東京裁判)でいわゆる「軍国主義者」が裁かれた。この過程で「鉄のカーテン」つまり「東西冷戦」が同時進行し、少なからぬ日本人に社会主義への憧憬や幻想を生み出した。
換言するなら、この三つの事象から戦後日本は「平和」「自由」「平等」の価値観を抽出し、戦前の価値観の全面否定に走ったといえよう。
しかし、時の経過とともに「平和」は「空想的平和主義」や「国防の放棄」に流れ、「自由」は「放縦」や「無責任」と同義語化した。「平等」は「悪しき」の形容がつくほど税制や教育に好ましからざる影響を与えた。
≪欠かせない価値観の転換≫
これらに転換を迫ったのが十年前の一連の歴史事象である。湾岸戦争は一国平和主義に鉄槌を下し、国際社会は日本にも人的貢献を要求した。東西冷戦の終焉は「平等」を価値観の中軸に据える社会主義への葬送曲であった。昭和天皇崩御は戦前と戦後を断絶してきた思潮的防波堤を突き崩し、逆に懸け橋となる契機を形成した。
このパラダイム転換期を日本は巧みに活用したといえるのではないか。PKO(国連平和維持活動)法、国旗国歌法、憲法調査会の設置など最近十年間に起きた動きは新しい国づくりへの建設の槌音であって、この文脈において「失われた十年」ではなく「立て直しの十年」だったとみる史観は的外れではあるまい。結果的に十三日になったとはいえ、小泉純一郎首相が十五日の靖国神社参拝にこだわったのもこの流れに沿ったものといえよう。
むろん、いわゆる「戦後民主主義」を主導してきた側からの抵抗は続くだろう。しかし、彼らはもはやアクセルたり得ない。ただ社会というクルマにはブレーキが欠かせない。その役割を担う存在として許す寛容さこそ、真の歴史の教訓ではあるまいか。


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