目撃 南京大虐殺 陣中日記 黒須忠信(仮名) 週刊金曜日1994.2.4第12号

2025年9月19日

週刊金曜日1994.2.4第12号 P26~43より引用。(著作権は (株)金曜日にあります。)
目撃 南京大虐殺 歩兵第65連隊と中国人捕虜 小野賢二
 日本軍の特質が如実に現れた南京大虐殺。最大級の虐殺を繰り広げだとされる歩兵第六五連隊ら当事者から得た数多くの証言と『陣中日記』には捕虜を殺害した様子が淡々と描かれている。いまだに「虐殺はなかった」という一部の人々や「自衛のために発砲した」と主張する人々の論拠を完璧に封じる第二弾!
 ・新聞記事への反論
一九九〇年四月から九月までの間は南京大虐殺について記した『陣中日記』や証言を得るため、俺はがむしゃらに動き回り、一番密度の濃い調査期間となった。元兵士たちから九〇にのぼる証言と陣中日記九冊その他の資料を入手した。結果的には歩兵第六五連隊が一万五〇〇〇人近い捕虜を二カ所で虐殺したという、前年までの調査結果と基本線は何ら変わることはなかった。しかし事実関係の細部を少々明らかにすることができたのと、証拠の積み重ねは大幅にできた。
 これらの調査結果が九〇年九月一九日付『朝日新聞』夕刊に「死者数は『一四、七七七人』か」と題して掲載された。捕虜の総数が一万四七七七人だとするなら、すべての捕虜が虐殺対象であったのだから、虐殺現場での逃亡成功者以外は、すべて虐殺されたことになる。
 偕行社(旧陸軍士官学校出身者の親睦団体)の南京戦史編集委員会とこの委員会のメンバーの一人でもある板倉由明氏から、この記事に対して朝日新聞社に強硬な抗議があった。『南京戦史』を批判した部分に抗議の重点が置かれていたが、俺の調査結果に対する反論も少々あった。しかしこの反論は「十七日 南京入城参加。I(第-大隊)ハ俘虜ノ開(ママ)放準備、同夜解放」と書かれた、両角業作大佐(当時歩兵第六五連隊長)のメモだといわれるものを持ち出して、『郷土部隊戦記』(福島民友新聞社)のいわゆる〝自衛発砲説〞(注1)をくり返すばかりで反論にはなっていなかった。
  この事件に関してだけ言えば、根本的な板倉氏らの誤りは、自ら汗水を流して調査をせず『郷土部隊戦記』の著者の一人でもある福島民友新聞社の阿部輝郎氏に依存していることだ。先の「両角メモ」はそもそも阿部氏が両角氏への取材時に入手したものだ。調査の初期に俺は阿部氏との資料交換の際すでにこれを入手していた。南京戦史編集委員会も阿部氏から提供を受けたと思われる。しかしある友人からの情報によると、この「両角メモ」は「両角氏が別室で原本から書き写したものをいただいた」と阿部氏自身が語ったという類のものでもある。
 ところがこの「両角メモ」は『南京戦史資料集Ⅱ』(九三年一二月八日発行)に堂々と加えられた。南京戦史編集委員会自ら「原本との照合は不能の状況である」と書きながらである。このようなものが一級資料となり得るのであろうか。しかも『資料集』『資料集Ⅱ』に収録された数点の資料(注2)だけから判断しても捕虜全員が虐殺対象だったことが分かるのだが、南京戦史編集委員会は『資料集Ⅲ』で「戦闘詳報、陣中日誌など公的記録が発見されていないので、捕虜処分を目的として連行したものか、解放するため運行中の突発事故であるのか断定することができない」と記している。
 阿部氏らがどのような経緯で『郷土部隊戦記』を書き、さらにそれを補強した『ふくしま 戦争と人間l白虎編』(福島民友新聞社)を世に出したか詳しくは知らぬが、一読者でしかなかった俺が「おかしい」と直感し、調査を始める一つのキッカケともなった。俺の調査結果は、〝自衛発砲説〞とは相反するものとなった。だから『朝日新聞』で取り上げられた。南京戦史編集委員会と板倉由明氏は自説の正当性を説くならば「両角メモ」と今まで世に出た捕虜虐殺を直接担当した一般兵の陣中日記との整合性を最低限説明しなければならないだろう。
 そればかりか彼らは「幕府山系と揚子江分流に挟まれた草鞋峡地区」の虐殺はすべて山田支隊(歩兵第六五連隊基幹)がやったと主張している。板倉由明氏は『間違いだらけの新聞報道』(閣文社)でこれをくり返した。この点については次の機会に取り上げたい。
  ・初日の虐殺は試験的な虐殺か
 一九三七年二一月一六日の虐殺状況はどのようなものだったのだろうか。今回紹介する『陣中日記』は山砲兵第一九連隊第Ⅲ大隊大隊段列(山田支隊)所属の黒須忠信氏(仮名)のものだ。黒須氏の証言を得て一年半後の九一年一二月に入手した。
 俺が入手した『陣中日記』の中には虐殺状況を詳しく書いたものは少ない。元兵士の多くは初めから「大虐殺」の事実は認めた。しかし個々人 - とりわけ自分がどんな行動をしたのかといったことは語りたがらないことが多かった。その理由は自分自身が黒須忠信氏の『陣中日記』にあるように銃剣で捕虜を刺殺するなど直接の当事者になっていたからだろう。黒須氏の『陣中日記』には中国人民や捕虜に対する当時の日本兵の精神、心理状態が書かれており、刺殺の状況の記述も生々しい。当時、末端の兵も含めて、捕虜を虐殺することに何の疑問も持っていなかったようである。
 この一六日の虐殺現場は揚子江岸の魚雷営である。複数の証言によるとこの建物の一部は日本軍の空爆で破壊されていたらしい。重機関銃は室内に備えつけ、コンクリートの壁に穴を開け、そこから捕虜を銃撃した。この現場で重機関銃の射手だった歩兵第六五連隊第Ⅲ機関銃中隊のH氏は「捕虜を『お客さん』と呼び、三日間連続同じ場所で捕虜を虐殺した。捕虜の抵抗はほとんどなかった」と証言したが、のちに虐殺日数を「二日間」と訂正した。一六日は「お客さん」としてどのような人たちが連行されてきたのだろうか。黒須忠信氏の『陣中日記』には「ウーン〈トウメク支那兵ノ聲。年寄モ居レパ子供モ居ル一人残ラズ殺ス」と書かれていることから、捕虜を収容所に入れる時、いわゆる非戦闘員(市民、婦人、子供、老人)など捕虜の半数を解放したとする、『郷土部隊戦記』などが主張する説がつくり話であることがわかるだろう。
 一四日に捕虜を収容所に入れる時、すでに捕虜の教は万を超えていたと思われる。それを一人ひとり選別するにはそれ相当の兵員と時間が必要だが、解放作業を担当したという当事者には残念ながらまだ一人も出会えていない。
 一六日の昼食事に捕虜収容所の一部が火事になる。『郷土部隊戦記』では夜となっているが、本誌第六(一二月一〇日)号の宮本省吾氏(仮名)の『陣中日記』からも昼と分かる。つけ加えると『郷土部隊戦記』では(火事の混乱に乗じて捕虜が逃亡したので銃撃して阻止したが残っていた捕虜の半数が逃亡した)という。だが多くの当事者は「混乱はあったが捕虜の逃亡はなかった。しかも警備がきつくて逃亡などできる状態でもなく、銃撃したなら味方同士で撃ち合う結果になってしまい、銃撃できる暫備体制ではなかった」という。
 俺の集めた陣中日記にも一六日に捕虜の逃亡者がいたとか銃撃があったとの記述はもちろんない。日本兵が死傷したなどという記述もない。では、厳重な警備体制の下で、なぜ火災が起きたのか。何が火災の原因であったのか突き止めることはできていないが、数名の当事者の証言の中に気になるこんな言葉があった。「最初(一六日)の虐殺は試験的に行なわれた」これが事実とするなら、捕虜収容所の火災は捕虜を虐殺現場に誘導させるための口実として山田支隊(歩兵第六五連隊基幹)が考え出した作戦の一つではないだろうか。捕虜収容所を背にして捕虜の一部が写し出された写真(『週刊朝日・アサヒグラフ臨時増刊支那革製画報 第十一号』=本誌第六号の一九ページ参照)の撮影は一六日のことである。多くの当事者にこの写真を見てもらったところ、なぜ多数の捕虜が収容所の外に座っているのかと不思議がった。通常、捕虜の多数が捕虜収容所の外に出ることはなかったという。だとするなら、一六日に行なわれた魚雷営での虐殺に連行された捕虜は、この写真に写っている捕虜と同一である可能性が大きい。
 山田支隊長メモ<このメモは『「南京大虐殺」のまぼろし』(鈴木明・文春文庫)と『南京戦史資料集Ⅱ』に掲載されている。ところが原本は一つのはずなのに大幅な違いがある。ここでは『「南京大虐殺」のまぼろし』から引用する>によると、捕虜の処置についての問い合わせに対して師団から一五日に「始末せよ」(虐殺せよとの意味)との命令を受け、一六日には軍司令部と捕虜の扱いの打ち合わせをしたという。どのような打ち合わせが行なわれたかは分からない。しかし現実に起こったことは前記のような状況であった。
 証言どおり「試験的」に行なわれた虐殺であったなら、万を超える捕虜を抱え、その「処理」に困り果てていた歩兵第六五連隊が.虐殺方法を確立するための「試験」だったのかも知れない。
 捕虜総数に比べれば膚殺された捕虜は少数だったし、さらに虐殺現場が建物のある地の利のためか、虐殺現場で捕虜の抵抗はあまりなかったようだ。黒須忠信氏の『陣中日記』に記された銃撃後の刺殺行動は具体的だ。この一六日の虐殺は山田支隊にとって成功したと判断されたようである。この経験から導き出された方法によって、翌一七日により大規模な虐殺が実行されることになる。
 ・幕府山山頂から捕虜の連行を見た
  一七日は南京入城式が強行された日である。歩兵第六五連隊は集成一個中隊を編成して参加した。残った兵は朝から捕虜収容所で捕虜を後手に縛り、数珠つなぎにする作業を続けた。この日、幕府山山頂付近の監視所から砲台警備を担当していた歩兵第六五連隊第八中隊の兵が延々と続く捕虜の連行を見ていた。この地点からは捕虜収容所も、連行経路も、虐殺現場も見渡せる。
 捕虜の連行を見ていた兵の一人M氏は「私は南京で幕府山砲台警備と死体処理をやった。砲台は幕府山の頂上と稜線沿いにあり、砲台と砲台の間隔は三〇から六〇メートル離れていた。砲台は第八中隊が警備を担当し、小隊単位で一昼夜交代だった。南京入城式があった時、私は昼も夜もずっと幕府山の山頂で警備をしていた。この日、捕虜の連行は日中から始まり夕方に終わった。捕虜の連行は延々と続いた。先頭の捕虜が揚子江岸に着いても捕虜は捕虜収容所からまだ出ていた。見た範囲で捕虜を集めたのは一カ所で私が警備していた所を中心とすると、だいだい捕虜収容所と反対側の揚子江岸に集められていた。その夜、捕虜は集められた場所で銃殺された。重機関銃の音と光が見えた。銃撃は連続で三〇分から一時間続いたと思う。銃殺した次の日に死体片づけの命令が出て午後から(自分も)参加した。死体の回りには鉄条網が張ってあり、同じ三次補充の兵がこの現場で捕虜の試し斬りをして逆に刀を奪われて殺されたと聞いた。その他に南京では城壁近くまで徴発に行った。その時、三三連隊に食事をいただいた記憶がある。現役の時、奉天で交替した部隊だったので覚えていた」と俺に証言した。
 やはり第八中隊員のZ氏(本人死亡)宅で「南京城外幕布山ノ捕慮」と題名のついた写真を入手した。この題名通りなら、多くの当事者が証言した「捕虜を後手に縛り、数珠つなぎにして虐殺現場に連行した」はこの写真で裏づけられることになる。撮影日が一六日、一七日のいずれのものかわからぬが、虐殺現場への連行途中であることは間違いないであろう。場所は揚子江岸か。
 この捕虜たちが収容された場所と虐殺現場となった大湾子は一体どこなのか。この場所をめぐって、板倉由明氏と本多勝一氏・洞富雄先生の間で論争が行なわれたことがあった。
 俺は友人数人とこれらの位置確定を主目的に九〇年一二月訪中した。大湾子の虐殺現場は現地に昔から住んでいる陳福銀氏(南京市渡師二隊在住)の証言で、上元門丁字路から揚子江下流約二キロ、白雲石鉱山という名の工場の裏手であることが分かった。捕虜収容所も弾薬庫の防衛兵士だった周立胞さんと、当時、地元に住んでいた朱□炳さんの証言で現在の五百村丁字路界隈であることがほぼ確実になった。
 前出『アサヒグラフ』の写真に写し出された「左下がりの山」は現五百村にあるアパートの屋上に上がることによってその類似性が確認できた。この地点から大湾子の虐殺現場までは約四キロであり、元兵士の多くが語った捕虜連行距離とも一致する。なお、こ捕虜収容所と虐殺現場の位置確定作業は『南京大虐殺の現場へ』(朝日新聞社)の「改竄したのはだれか・板倉氏批判」(洞富雄・和多田進氏)の論文の正しさを裏づける結果ともなった。
  ・捕虜連行の日的  
『郷土部隊戦記』によると、捕虜を揚子江岸に連行したのは対岸に解放する目的だったという。虐殺現場の最高責任者は歩兵第六五連隊第-大隊の大隊長・田山芳雄少佐で彼はクリスチャンでもあった。その護衛兵だった荒海清衛上等兵は回想記(白虎六光春友会編『戦友の絆』一九八〇年)に次のように記す。
 私の軍隊生活を通じて一番印象に残ることは南京での大虐殺だろう。郷土部隊戦記に記載されてることは、ほぼ真実を伝えて居る。私は田山部隊本部に勤務して居た関係上、少しは内情も知って居る。我々が南京近くに来るとそこここから敵がどんどん投降して来た。其の教は幾千だったろう。捕虜は幕府山砲台付近の兵舎らしい建物に収容した。十二月十六日捕虜の宿舎が焼けて大騒ぎした。十二月十七日に入城式があり、田山部隊からも一部が参加した。残りの部隊で捕虜を江岸までつれていかなければならない。そこで二人三脚の様に足をしばった。そして両側に護衛兵をつけた。途中脱走する者も出た。一人か二人だったと思う。護衛兵が発砲したが、当らなかった。運の強いやつだ。江岸までつれて行くのには九州生れの植松通訳が捕虜に向ってお前達は今から川の向うに渡してやるのでおとなしく行動する様にと、幾度も幾度も説明された。途中ザクロの林があったことを覚えて居る。随分長い道のりの様に思われた。何しろ大部隊なので、早くは歩けない。何しろ二人三脚をやって居るのだから、ついたのは夕方になって居たと思う。江岸の窪地に集結させた。機関銃はすえられ、何時でも発射出来る様準備されて居た。
 何かがあると直感したのだろう、捕虜の集団からざわめきが起った。事態は急転した。ニケ大隊の機関銃は一斉に火をふいた。けたたましい重機の音とざわめき惨状は見るに忍びない。事はすでに終ったが、まだまだ生き残った者が死体の下に居た。それを銃剣で刺した。中には棒切れで手向って来る者もあり、その凄惨な形相は今でも脳裡に浮んで来る。軍の命令には逆らうことは出来なかったのだ。両角部隊も仕方なく大隊に命令されたのだ、と後で田山隊長がしみじみと語られた(個人的に)。郷土部隊とて好んで比の仕事を引き受けたのではない。上部の命令にはそむく訳には行かなかったのた。
 荒海氏は「郷土部隊戦記に記載されていることは、ほぼ真実を伝えて居る」と記述するが、その後の文章でこれを否定する。俺に対しての証言でも否定した。そして捕虜連行の目的は「虐殺」であり、捕虜に「川の向うに渡してやると説明したのは捕虜を移動させる口実に過ぎず、命令は軍からのものだったと断言した。
 ・一昼夜かかった捕虜虐殺
 一七日の大湾子での捕虜虐殺の手順は前日一六日の魚雷皆での虐殺とほぼ同じだが、捕虜の人数が多い分だけ混乱が増した。重機関銃と軽機関銃による一斉射撃の後、黒須忠信氏の。陣中日記』にみられる通り、兵が銃剣で捕虜の中に刺殺に入ってから混乱が引きおこされた。この調査結果の『朝日新聞』記事をきっかけに本多勝一氏が入手した歩兵第六五連隊第八中隊の遠藤高明少尉(仮名)の『陣中日記』(『朝日ジャーナル』一九九一年二月一五日号「貧困なる精神」に掲載)には次のように書かれている。
 十二月十八日。午前一時、処刑不完全ノ為生存捕虜アリ、整理ノ為出動ヲ命セラレ、刑場二赴ク。寒風吹キ募り向三時頃ヨリ吹雪トナリ、骨マデ凍え、夜明ノ待遠シサ言語ニ絶ス。同八時三十分完了。風稍々治り天候恢復。幕府山警備兵帰舎、南京見学兵六名アリ。午前中一時間仮眠ス。久シクロニセサル林檎一個支給サル。正午第四次補充員九名編入サル。午後二時ヨリ同七時三十分マテ、処刑場死体壱万有余取片付ノ為兵二十五名出動セシム。
 この記述の通り、一八日の午前一時になっても生存している捕虜があり、兵は出動を命ぜられている。
 ・日本兵の死から見た捕虜虐殺 
 歩兵第六五連隊は戦闘行為のほとんどなかった南京で七名の死者を出している。この死者は捕虜虐殺現場で生じたものと考えられる。
 前夜の経験も踏まえて山田支隊がこの大虐殺計画を立てた時、日本兵に死傷者を出さないことが鉄則の虐殺計画だったはずだ。しかし現実には本誌第六号で紹介した宮本省吾(仮名)少尉のー『陣中日記』に「十七日(小雪)(前略)終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった。中隊死者一、傷者二、に達す」と書かざるを得ない状況に陥った。
 日本兵の死を調べるうちに、証言から「整理兵」と呼ばれる兵が存在したことが分かった。揚子江岸の川原に半円形分だけの鉄条網を張り、その中に連行してきた捕虜を次々と入れた。この膨大な数の捕虜を揚子江岸から順次並べていくためには捕虜を誘導する日本兵が必要だった。その役割を担ったのが「整理兵」と呼ばれた兵であった。この「整理兵」の何名かは捕虜虐殺のための銃撃が始まっても外に出られなかったらしい。これを裏づげろかのように「外に出られなかっiた整理兵を見た」という元兵士の証言もあった。とするなら日本兵が日本兵を銃撃したことになるのではないか。
 ところで日本兵七名の死亡者のうち一人は歩兵第六五連隊の連隊機関銃隊の少尉だった。
 大宅ノンフィクション賞を受賞した『南京大虐殺」のまぼろし』は、この少尉の死を「この事件が、単に『捕虜への一方的虐殺』ではなかったことを、この一人の将校の戦死の記録が、充分に物語っている」と書き、捕虜虐殺の事実への免罪符にしようとした。.
 しかし、連隊機関銃隊の小尉の死について俺が元兵士から得た証言は「捕虜の試し斬りを行なって、逆に刀を奪われて殺された」というものであった。鈴木明氏の言う「『捕虜への一方的虐殺』ではなかった」が的はずれだと分かる。つけ加えるなら各重機関銃隊は役割の銃撃を終えた後宿舎に引き上げている。捕虜と機関銃隊を取り囲んだ歩兵が銃撃の後、捕虜の中に銃剣で突き刺しに入るが、重機関銃隊はこの役割を担ってはいない。
 だとするなら、この「試し斬り」の証言が説得力を持って響いてくると感じるのは俺だけだろうか。俺が手に入れたある『陣中日記』には「○○君は十二月十七日、夜十時戦死」と書かれている((○○は死亡した少尉の苗字)。「夜十時」は機関銃隊が役割を終えていたはずの時間帯ではなかったか。その時間帯に先の小尉が現場にいたことから考えても、日本刀で「試し斬り」をしていた証言の信憑性は高い。
 この他に日本兵が死亡したと考えられる原因は捕虜銃撃の後の銃剣による刺殺行為である。機関銃で捕虜を銃撃しても、万を超える捕虜のすべてが死亡したわけではなかった。言葉は悪いが「撃ちもらし」「殺しそこね」が生じたであろうことは想像にかたくない。捕虜を取り囲んで「伏せ」の状態で警備していた歩兵に「突撃」命令が出るのは前夜と同じだったが、前夜とまったく違う状況は捕虜教であった。あまりにも多くの捕虜だったため一七日の虐殺現場には生存していた捕虜が数多くいた。暗闇の中で日本兵と捕虜との格闘、日本兵同士の格闘があったかも知れない。
 あまりの混乱で一度宿舎に引き上げた歩兵第六五連隊の第二機関銃中隊は現場に再度呼び戻される。だが捕虜と日本兵が入り乱れていて引き金は引けなかったという。この混乱の中での他の日本兵の死亡原因や負傷者数など詳細は不明だ。日本兵は混乱した状況の中で死体の山に石油をかけて火を放ち、熱さで動き出す捕虜を見つけては次々と刺殺し続けた。宿舎で待機していた兵と入れ代わりながら、この〞作業〞は一七日から一八日朝方まで続く。
 南京は一七日、日中は晴れ渡っていた。夜半から寒風吹く荒れ模様の天気になった。一八日朝にはうっすらと初冠雪を記録した。
 ・射撃範囲の謎を解く  
 まったく素朴な疑問として、半円形に機関銃を設置し、ただ乱射したのなら味方同士が撃ち合うことにならないか。それにしては日本兵の死亡者が少なすぎる。
 しかし、実は機関銃の射撃範囲が綿密に計画、設定されてあったのだ。捕虜が騒乱を起こしたから乱射したのでは決してない。歩兵第六五連隊第二機関銃中隊の上等兵で射手であったA氏に幸運にも会、え、証言を得た。A氏は興奮気味に「私は南京の伴では戦争犯罪者だと思っている。この件に関しては他人に話したことはない。捕虜を連行する前に、現場には重機関銃を備えつけておいた。陣地は歩兵か工兵が昼間つくった。重機関銃はシートをかぶせ偽装しておいた。捕虜を後手にしぼり、数珠つなぎにしたのは朝からで、星頃から連行が始まった。捕虜収容所から一〇〇人くらいの単位で隊列をつくり、問を置いて次々と出した。夕方近くまでかがった。その間、捕虜の生理はタレ流しだった。
 捕虜の連行経路は捕虜収容所を出発し、幕府山を右に回り揚子江岸の虐殺現場に連行した。場所は幕府山の絶壁の下で道路から左に入るとすぐだった。クリークなどはなく、歩きやすい場所だった。目立つ物は大きな柳の木があったくらい。我々の宿舎からもそんなに歩かなかったので遠い所ではなかった。捕虜収容所から虐殺現場までは捕虜を連行して一時問くらいかかった。連行途中の逃亡者は射殺された。捕虜は虐殺されるのを知っていたのではないか。虐殺現場は半円形に鉄条網が張ってあり、揚子江岸の反対側に入口があった。鉄条網内は普通の小学校のグラウンドより広い気がした。早く連行して来た捕虜から順番に(揚子江岸から)座らせた。鉄条網の外側を歩兵が警備していた。重機関銃は八機くらいあったと思う。我々が手をかけた。歩兵の軽機関銃も加わった。機関銃の射撃範囲は鉄条網の揚子江岸の両端に松明みたいな火を燃やし、その両端の火の間を、それぞれの機関銃の射撃範囲とした。この点火を合図に射撃を開始した。
 捕虜の逃亡できる場所は揚子江岸しかなく、逃亡した者がいたとしても多数ではない。射撃は二回くり返した。一度終わったら捕虜が立ち上がったから。その後、重機関銃隊員は宿舎に帰り、重機関銃を手入れしていると臨時召集がかかり、再度虐殺現場に急行したが、中に歩兵がいたので撃てなかった。虐殺現場までの距離は重機関銃を分解して持って行ったのだから、そんなに遠い所ではなかった。遠い場所に重機関銃を移動するには馬を使う」と、射撃範囲については自ら図示してくれた。
 なるほど、これなら味方を死傷する事は避けられる。『郷土部隊戦記』の言う、捕虜が暴動を起こしたのでやむを得ず発砲したという説は、当然のことながら捕虜と日本兵が入り乱れた状態を現出させるであろう。そこに機関銃を乱射したのであれば日本兵の死者が少なすぎはしないか。この証言を得てから、一人の射手と何名かの機関銃隊員に「火」と「射撃範囲」について確認した。すでに盲目となっていた射手の一人はその通りだと言い、その他の機関銃隊員は「火は見た。射撃範囲も考えられることだ」と語った。ただし射撃範囲について書かれた当時の記録はまだ発見されていない。
 ・死体処理に追われる山
  一七日に捕虜を銃殺、刺殺した山田支隊(歩兵第六五連隊基幹)は一八日早朝から死体処理に取りかかった。
 歩兵第六五連隊の第四次補充兵四二七名は南京入城式の行なわれた一二月一七日、幕府山下の原隊に着隊した。この日は前日に引き続き、残った捕虜全員を虐殺するために次々と揚子江岸へ連行した日でもある。第四次補充兵たちは捕虜の連行の最中に補充になった。翌一八日から始まる死体処理にはほぼ全員が動員された。
 その一人だった第七中隊の大寺隆上等兵の円陣中日記』から一部を抜粋する。
 十二月十八日
午后は皆捕リヨ兵方(ママ)付に行つたが、俺は指揮班の為行かず。昨夜までに殺した捕リヨは約二萬、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なって居るそうだ。七時だが未だ方付け隊は帰へつて来ない。
 十二月十九日 幕布山要塞
 午前七時半整列にて清掃作業に行く。揚子江の現場に行き、折り重なる幾百の死骸に警(ママ)く。石油をかけて焼いた為悪臭はなはだし。今日の使役兵は師団全部、午后二時までかゝり、作業を終る。
 一八日に「昨夜までに殺した捕リヨは約二萬、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なって居るそうだ」と書かれた「二ヶ所」の意味がまだ完全に解明されていない。大寺氏の証言によると、別々の場所に死体の山が「二ヶ所」あったという。一六日の魚雷営での虐殺はその夜のうちに「死体処理」を完了しているが、H氏の証言にあるように、魚雷営で二日ないし三日間連続虐殺があった可能性が考えられる。しかしこの「三日間」説については証言しか得ていない。一七日の捕虜連行が大湾子、魚雷営に分割されたにしろ、大湾子だけだったにせよ、虐殺した捕虜の総数に変わりはない。
 「死体処理」とは虐殺した死体を揚子江に流す作業である。証言によると相当数の日本兵が参加して各中隊ごとに区割をし、柳の木の二又を利用して二人一組になって、死体の腕の両脇をはさんで引きずった。死体は広範囲にあり、層をなしているところもあった。石油で焼いたため臭いがものすごく、手ぬぐいでマスクをしたが耐えられるものではなかった。揚子江は流れが悪く、水際は死体が土手のようになった。死体の中にはまだ生存していた捕虜がおり、銃剣で刺したり銃殺したという。一昼夜かかっても虐殺しきれなかった捕虜がいた。
 一九日に山田支隊(歩兵第六五連隊基幹)には対岸への渡河命令が出ていた。このため捕虜の処置と死体処理は急がれていた。渡河を一日延長して、二〇日に主力が渡河する。よって「死体処理」が完全に終わったかどうか定かではない。

(注1)捕虜のうち半数を占めた女性、子供、老人一般市民ら非戦闘員を解放した。一二月一六日の夜捕虜収容所で発生した火事をきっかけにさらに半数が逃亡した。結局残った捕虜を揚子江の対岸に解放するため連行したところ捕虜が暴動を起こしたので、やむをえず歩兵第六五連隊は発砲した。死者は一〇〇〇人程度だったーという説。
(注2)『資料集』の「田中三郎(仮名)スケッチ」や『資料Ⅱ』の「山田栴二日記」「両角業作手記」「荒海清衛日記」「大寺隆日記」など。
おの けんじ・化学労働者。一九四九年生まれ。福島県いわき市在住。南京事件調査研究会会員。
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陣中日記 第一三師団山砲兵第一九連隊第三大隊大隊段
黒須忠信(仮名)(監修/藤原彰元一橋大学教授)
●山砲聯隊に入隊
●神戸港から出征
●上海へ上陸
●兵站病院へ入院
●入営一ケ月経過
●死にたくない・・・
●敵の退却
●腐敗した死体
 拾月耕一日
 朝ヨリ雨ガタン降ツテ居タノデ道路ハ悪ク、戦隊段列ヨリ中隊段列マデノ弾薬運搬ニハ相当難儀ヲシタ。歩兵ノ戦死者ハ一週間位其ノマヽ二捨テラレタヽメ、頭部其ノ他ハ腐敗シテ見ルカラ気ノ毒デアツタ。中隊デハ水ガ少シモ無クナリクリークノ水ヲ使用シテ飯ヲタク有様デ水ノ無イノデ実二平向。前線デハ我等ノ何倍トナク水二難儀ヲシテ居ルラシィ。
(後略)
●陣中で迎えた明治館
●徴発とう名の略奪
 拾一月拾六日 五時起床
 南梅林宅ヲ出発。午前拾時頃雨ガ降り出シテ来て行軍スル我等ノ難儀ヲ一層ツラカラシメタ。クリーク二掛けタル太鼓橋ハ馬ノ渡橋二相当骨ガ折レ、尚町ノ道ハ狭クヤツトノ事デ馬ガ通レル位デアル。食糧ノ補給ハ全然ナク支那人家屋ヨリ南京米其ノ他ノ物ヲ徴発シテ一命ヲツナギ前進ス。午后拾時某地ニ到着宿営ス。砂楢濁酒等モ始メテ出喰セタノデ兵士ノヨロコビハ一通デハナイ。今迄ノツカレモスツカリ忘れテ終ワッタ位デアル。
 拾一月十七日 雨
 某地ヲ午前七時出発。途中道と云う道ハ全然ナク田ノアゼ道ヲ前進、敵ハ目下完成中ノトーチカヲ其ノマヽ二シテ退却モノデアル。我ガ軍馬ハ悪路ノタメ相当二多ク斃れテ居タ。今日ハ雨ノタメ道ハ非常二悪ク二里位ノ行軍ヲナシテ某地二到着宿営ス。敵弾ハ我等ノ頭上ヲカスメイクラデモ飛ビ来ツタ。XXXX君ニ面会スル事ガ出来テ嬉シク語り合ツタ。※二ヤーヲ一人連レテ来た処我等ノ目ヲ盗ンデ逃ゲタノデ直二小銃ヲ発射シ射殺シテシマフ。
※你のことで、当時の日本兵が中国人にたいして使った呼び名。(後略)
●学生軍を突殺
●江陰城に進軍
●”歓迎大日本”の文字
●敗残兵の死体

●捕虜の大虐殺
 拾二月拾六日 晴
 午后後一時我ガ段列ヨリ二十名ハ残兵掃□(不明)ノ目的ニテ馬風山方面ニ向フ。二三日前捕虜セシ
支那兵ノー部五千名ヲ揚子江岸ノ沿岸ニ連レ出シ機関銃ヲ以テ射殺ス。其ノ后銃剣ニテ思フ存分二突刺ス。自分モ此ノ時パカリト憎キ支那兵ヲ三十人モ突剣シタ事デアロウ。山となつテ居ル死人ノ上をアガツテ突剣ス気持ハ鬼ヲモヒヽガン勇気ガ出テカ一ばいニ突刺シタリ。ウーンウーントウメク支那兵ノ声、年寄モ居レバ子供モ居ル。一人残ラズ殺ス。刀ヲ借リテ首ヲ切ツテ見タ。コンナ事ハ今マデ中ニナイ珍ラシイ出来事デアツタ。XX少尉殿並ニXXXX氏XXXXX氏等ニ面会スル事ガ出来タ。皆無事元気デアツタ。帰リシ時ハ午后八時トナリ腕ハ相当ツカレテ居タ。

●南京城入城
●続けられる略奪行為
●戦死者の慰霊祭

略奪と虐殺をほしいままにした日本軍 笠原十九司
『黒須忠信(仮名)陣中日記』の解説 下の「続きを読む」に続く
加害の歴史

 ・『黒須忠信陣中日記』の価値
南京大虐殺の歴史事実を否定しよぅと一部の旧軍人・文筆家たちが文芸春秋や産経新聞社などのジャーナリズムのバックアップを受けて展開した、いわゆる〞南京大虐殺論争〞も否定派の敗北によって基本的には決着がついた。今後は、犠牲者の教もふくめて、より具体的かつ全体的な南京大虐殺の実相の解明とその背景の究明が課題とされている。
 ところが、こうした課題に答えるための南京大虐殺に関する資料は、日本人、中国人、(アメリカ人、ドイッ人などの)外国人などによる諸資料があるなかで、日本軍関係資料の発掘が一番遅れている。そのことは、私も属する南京専件調査研究会で、それぞれの資料集の刊行をめざしたが、同研究会編。南京事件資料集 ①アメリカ関係資料編②中国関係資料編』(青木書店)の出版に終あったことに象徴されている。
 日本軍関係の資料の発掘を困難にしている最大の障害のひとつは、虐殺の証言資料を公表した本人や遺族に対して、旧軍人組織や南京大虐殺否定派の文筆家・出版社などから執拗な嫌がらせと圧力が加えられることにある。こうした困難な状況のなかにあって、小野賢二さんが何年間もかけて旧兵士や遺族をたずね歩き、陣中日記を掘りおこしてきた仕事の意義は大きい。
 『黒須忠信陣中日記』はそうした成果のひとつであり、今後の南京事件研究の課題に答える第一次資料である。
 ・黒須忠信上等兵について(略)
 ・山田支隊長日記との対照読み(略)
 ・略奪の軍隊
 『黒須忠信陣中日記』から、山砲兵の段列であった黒須上等兵にとって、糧秣(兵士と馬の食量)「徴発」が重要な任務であったことが分かる。南京攻略に向かう途上「食糧ノ補給ハ全然ナク支那人家屋ヨリ南京米其ノ他ノ物ヲ徴発シテ一命ヲツナギ前進ス」(二月一六日)とあり、さらに南京占領後でも「毎日ノ徴発ニテ兵ハ多忙デアル位」(一二月二六日)「毎日量食ノ徴発ヲシナケレバ食フ事ガ出来ナイ」(一二月二八日)とある。この「食糧徴発」は中国の民衆からみれば略奪であるが、この「敵中に食を求むる」作戦を当然のことと考える兵士は、略奪した豚を殺して食べたり、略奪した濁酒を思う存分に飲んだりして「実ニ戦争ナンテ面白い」(一一月二五日)と、略奪行為を楽しむようにさえなるのである。
 しかし、こうした日本兵士の徴発=略鯨行為が、中国民衆に敵意を抱かせ、殺害されるケースもあったことは、ここには掲載できなかったが、同黒須日記の翌年一月九日に、隊長より「徴発等二行ツテ犬死ナドセサル様注意ガアル」という記述があることからも想像される。
 こうした略奪の軍隊としての日本軍について、先の。山田栴二日記』では、「徴発ノ不鱈ハ、結局与フべキモノヲ与へサリシ悪習慣ナリ、徴発二依リテ、自前ナル故、或ル所ハ大イニ御馳走ニアリツキ、或ル所ハ食フニ食ナシノ状ヲ呈ス…-‥兵ノ機敏ナル、皆泥棒ノ寄集リトモ評スぺキカ」とまで書いている(前掲書、三三五頁)。出征前は仙台教導学校長であった山田栴二少将の見識からみれば、そのような日本軍の作戦行動に不満であったことがうかがわれる。
 ・捕虜の大量虐殺
 本日記は、南京大虐殺における捕虜の集団虐殺の事実を証明する貴重な資料となっている。山田支隊が幕府山付近で得た捕虜を大量虐殺した事実については、本多勝一・小野賢二「幕府山の捕虜集団虐殺」(『南京大虐殺の研究』晩聾社)に詳述され、本誌第六号に掲載された歩兵第六五聯隊関係の陣中日記がそれを裏付けるものであった。
 本日記も偕行社『南京戦史』らが主張する捕虜の釈放・逃亡説を否定する資料のひとつとなっている。
 前掲『山田栴二日誼』は、この捕虜大量虐殺に関して以下のように記している。
「捕虜ノ仕末二困り、恰モ発見セシ上元門外ノ学校二収容セシ所、一四、七七七名ヲ得タリ」(一二月一四日)「捕虜ノ仕末其他ニテ本間騎兵少尉ヲ南京二派遣シ連絡ス 皆殺セトノコトナリ」 (一五日) 「捕虜ノ仕末其ノ他ニテ打合セヲナサシム、捕虜ノ監視、誠二田山大隊大役ナリ」(一六日)「捕虜ノ仕末一二テ隊ハ精一杯ナリ、江岸二之ヲ視察ス」(一八日)「捕虜ノ仕末ノ為出発延期、午前総出二テ努カセシム」 (一九日)。
 小野賢二氏は前掲論文で「この捕虜の大集団は、揚子江岸で一二月一六、一七両日の二回に分けて殺されたが、それは二カ所で少なくとも三分割にして行われた可能性がきわめて高い……死体を揚子江に流すのに一八、一九日の両日かかった」(同前書、一三一頁)と記しているのは、この山田日記と符合する。
 黒須上等兵は所属部隊の段列から派遺されて、一六日に行われた捕虜の一部五〇〇〇名の殺害に参加する。長江沿岸に連れ出して機関銃で掃射した後、生存者を銃剣で刺殺するのが彼らの役割であった。「自分モ此ノ時パカリト憎キ支那兵ヲ三十人モ突刺シタ事デアロウ……ウーン〈トウメク支那兵ノ聾、年寄モ居レバ子供モ居ル一人残ラズ殺ス。刀ヲ借リテ首ヲ切ツテ見タ」と記す黒須上等兵には、捕虜殺害は戦時国際法に反するという意識はまったくうかがわれない。
 本陣中日記の発掘も含めて、山田支隊が長江岸で行った捕虜大量虐殺の全貌と実態をここまで、明らかにした小野賢二氏の努力には衷心より敬服する。

かさはら とくし・一九四四年群馬県生まれ。宇都宮大学教授。中国近代史専攻。共著に『南京大虐殺の研究』(一九九二年 晩聲社)、南京大盾役の現場へ」一九八八年 朝日新聞社)がある。
ーー(以上、引用終わり)
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