南京大虐殺 杭州湾から南京へ 、「南京大虐殺」最大の暴虐現場から 本多勝一 週刊金曜日37号 

2025年9月15日

8.15特集 日本の「加害責任」の光景 杭州湾から南京へ 本多勝一 週刊金曜日1994.8.5 第37号 P21~31より引用。
 意識変革をもたらすジャーナリズムが存在しなかった
(前略)したがって、私自身の体験だけからしても、たとえば『南京への道』といったルポは「マスメディア」としての『朝日新聞』に発表することができなかったし、その取材は休暇をとってやらざるをえず、発表も小部数週刊誌たる『朝日ジャーナル』であった。しかし事態はますます悪化し、その『朝日ジャーナル』さえ休刊にさせられたので、もはやこの日本にはこの種のルポを発表できるメディアは、少なくとも一定以上の影響力のあるものには(本誌を除いて)なくなった。(略)
 すなわち、1937年の南京攻略戦は、上海派遣軍と第一〇軍という二つの軍団による作戦であって、両者は進路も違っていた。上海派遣軍は上海からほぼ揚子江と平行して太湖の北側を西進したのにたいし、第一〇軍は杭州湾に上陸してから太湖の南側を西進したのである。(略)
 刻々と消える大虐殺の体験者
P22
杭州湾に上陸した日本軍が、その直後に捕虜を全員虐殺したことは、当時の火野葦兵や小林秀雄の記録に出ているとおりである(注2『南京への道』(朝日文庫)18ページ以下に引用)。このように南京への途上で捕虜は片端から虐殺していったのだから、南京に到達したとたんに虐殺しなくなるのでは日本軍の行動として矛盾することになる。南京での捕虜虐殺を否定する論者たちには、こうした基本的なあやまりがあるが、さらに「南京大虐殺」を南京市内に限定して定義することの無意味さも理解できよう。大虐殺は南京攻略線と南京占領前後の約四カ月間という時間と空間での連続する暴虐事件であって、そのどこにも境界線を引くことはできない。 
 逃げ切れなかった身障者・老人・病人が殺された
 11月5日に上陸した日本陸軍第一〇軍は、熊本の第六師団久留米の第一八師団宇都宮の第一四師団で編成されていた。(略)嘉膳城内の中心部は、県庁をはじめ(略)爆撃ですでに破壊されていたが(略)。町内には逃げ切れなかった住民が100人ほどいて、多くは身障者・老人・病人だったが、そのほとんどが殺されたという。死体は「維持会」(注3 維持会は正式には「治安維持会」とよばれ、日本軍占領下でその手足となって支配に協力した中国人の組織。一般中国人からは「漢奸」と軽蔑された)の瀋金生という人などがかたづけた。その話では、銃剣による刺殺が多かったらしい。(略)
 電線にぶらさがる死体の断片
 見つかると片端から虐殺される 
約四〇〇世帯のうち無事だったのはわずか八世帯
 新豊鎮のすぐ北には何家橋村があり、(略)、三人とも虐殺されて、門のそばの小川に死体が投げ込まれた。このうち一九歳の娘は強姦されて殺された。(略)その娘は下半身はだかにされ、軍刀らしきものでほとから上へと腹を斬りさかれ、腸が飛び出していた。(後略)

P28「南京大虐殺」最大の暴虐現場から 本多勝一
 (略)合計三万三〇〇〇人が集団虐殺された可能性も
 (略)幕府山麓の現場のうち、一七日に大湾子付近で行われた大規模な虐殺の模様は、実際に参加した下士官(田中三郎 仮名)から詳細に聞き書きして拙著『南京への道』(朝日文庫)にすでに発表されている。
P29 一二月一六日の集団虐殺
 (略)それにしても暴虐の中身はものすごかった。「ある部落に泊まる場合は、男という男はぜんぶ家の裏に連れていって、拳銃や小銃で殺してしまった。そして女と子供はある家の中に入れて夜は強姦した。自分はそうしたことはしなかったけれども、ほかの兵隊は相当強姦をしたように思われます。そして、翌日の朝たつときには、その強姦した女達や子供達をぜんぶ殺して、しまいには家まで焼いて、かえってきても住むところがないというようにして前進したのでございます。そして、自分も不思議に思って、なぜこんなまねをするんだと聞いたところが、いや、この地区は抗日思想が相当はげしいので、ぜんぶ殺してしまえという命令だから、ぜんぶ殺すほかないというわけで、とにかく、火つけ、強盗、強姦、殺人あらゆる罪状を重ねた戦争でございました。」(略)
 倒れた捕虜を銃剣で刺殺  略
機関銃掃射と銃剣での刺殺と
P30(略)捕虜の列が広場に到着する頃から、まわりの畑で「ためし斬り」がさかんに行われていた。軍刀を持っている兵隊が、列から捕虜を引っ張ってきて首を斬るのだ。銃剣で刺す者もいた。もはや地獄図絵にちかい光景なのだが、異常なことと認識する者はなかった。「ためし斬り」には、あたかもみやげ話づくりのような心理もあった。段列(タマ運び)の黒須氏も、これまで人の首を斬ったことはなかったので、曹長の持っていた軍刀を借りて斬ってみた。しかしだれかに殺されて倒れている捕虜の首は、やりにくくて半分ほどしか斬れなかった。(略)
 一万四、五千人とされる捕虜の「処分」
(略)大湾子の川岸まで一時間か一時間半で着いた。(略)
P31機関銃掃射が開始されたのは、小林氏の記憶では午後七時ころとされている。(略)何回か合間をとっては掃射がくりかえされ一万何千人の阿鼻地獄は死体の山となっていった。そのあとは前夜と同様に銃剣による刺しまわり”作業”である。(略)
死体の山に石油をかける  後略

 わがうちなる南京事件 吉田裕
(略)かつて、作田啓一は『恥の文化再考』(一九六七年)の中で、「もし私が戦争犯罪をかつて犯さなかったように、今も犯していないのは、ただその機会に恵まれなかったに過ぎない」という立場から、「われらの内なる戦争犯罪者」という衝撃的な問題提起を行った。この提起にこたえようとする姿勢を持ち続けないかぎり、南京事件は事件に直接関与していない日本人にとって、しょせん「他人事」でしかない。(略)
 ーー(引用終わり)
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最初の一文で本多さんのルポを発表する場が日本にいかにないかが判る。最初の一文は朝日の本多勝一集23「南京大虐殺」ではカットされている。