南京大虐殺 杭州湾から南京へ1 本多勝一週刊金曜日49号

2025年9月15日

杭州湾から南京へ1 本多勝一 週刊金曜日1994.11.4号P24~27より引用。
 いまから五七年前の今月五日未明、日本陸軍「第一〇軍」は、中国・杭州湾の一角・金山衛周辺に敵前上陸した。
以後、上海から西進した「上海派遣軍」とともに首都・南京占領まで一カ月余。
その全行程が「虐殺」で連結していた。
当時と時期を同じくする今週号から、南京占領にいたる行程を現地にたどって報告する。(略)
 南潯鎮の放火と虐殺
P25(略)運河と公路から侵入した日本兵は、一緒になると放火・殺人にとりかがった。(略)
 上海から避難してきた周世業という人がいた。この町の出身でこのあと一二月末までかかって死者数を調べ、報告書を書いた。それによると死体の数は約四〇〇人で、そのうち荘開伯という名の小学校の先生とその息子が殺された現場を燭は見ている。また張和孚という古参労働者(一九八二年に死亡)の認ぺでは、このうち逃げおくれた中国兵が約一〇〇人、市街地の住民が約八〇人、さらに農民も二〇〇人ほど殺された。これら農民は、日本兵に農村部から連行されてきた者と、疎開した町民の親類で荷をはこびだしに来た者たちであった。目撃者によれば、市内の道路はいたるところに死体がちらばっていたが、とくに西木巷から西柵にかけてと、中心部の唐家兜や栲栳湾に多かった。そのなかで集団虐殺の場となったのは百間楼で、技師・崔学興の家族が目撃したところだと三〇人ほど射殺された。
 範希仁さんはこのような内容を語った。
P26集団刺殺と強姦殺人
(略)虐殺はその直後に二人の眼前でおこなわれた。残った九人のうち、ひとりは逃げようとして射殺された。あと八人は銃剣でつぎつぎと刺し殺された。この光景をまのあたりにした伯父・沈金宝は、精神異常をきたして半年後に首つり自殺することになる。
 そのほか、義兄から次のような犠牲者たちの消息をきいた。
▽「阿銀」(男)は水路用の溝で死体になっていた。
▽「珍宝」(男)は厠にすわった姿勢で首を切りおとされていた。
▽「戴愛珍」(女、二〇歳代)は強姦ざれたあと刺し殺された。みつかったとき下半身はだかで七カ所に刺し傷があった。
▽「阿鳳」(女、二〇歳代)も強姦されたが死ななかった。
▽「巧雲」(同)も同様。
▽「戴財生」(男、二〇歳代の農民)は舟を漕いでいて撃たれ、一週間後に死亡。
 沈宝文さんは以上のように語った。
 日本兵が泊まった村
夜があけると、日本軍は村を出ていった。三人がもどってみると、
村の一〇〇問くらいのうち五〇間ほどはタキモノなどにして焼かれていたが、朱さんの家は無事だった。無事な家は炊さんなど宿泊の痕跡がそのままにされていた。村人のなかで、沈麻子という五五歳の男性がひとり、自分の家にいて日本軍につかまっていた。この家でも日本兵は泊ったのだが、家の中の様子や沈麻子の死体の様子から推察すると、日本兵は彼に炊事を手つだわせたらしい。しかし村を出る前に、大鍋の湯のなかへ彼の両手をしぼって放りこみ、かまゆでにして殺したのであった。
 あくる一九日の夜、朱さんの従兄(父の兄の息子)・米案祷(当時四八歳)は、避難さきの烏鎮から舟で村へ帰る途中、祜村で日本軍につかまった。三人乗っていたが、連行されようとしたとき一人は川にとびこんで逃げ、従兄ら二人は日本兵が岸に上らせてから射殺した。この様子は逃げた一人から聞いた。従兄の死体は、現場にあった肥だめから見つかった。
 朱従亮さんは以上のように語った。
 「若い娘」さがし 
三日後の二一日。北隣りの東遷村に駐屯していた日本兵が数人あらわれた。しかし彼らの目的はニワトリではなく、「花姑娘」(若い娘)であった。日本兵は陳家冬をつがまえると、女性さがしの案内をさせて家々をまわった。どこにも見つからなかった。日本兵らは腹いせに、陳を運河の岸辺で殺した。一部始終は残っていた老人が見ていた。
 村人だちがもどったとき、陳家冬はひざまずかされた格好で死んでいた。村の家々が焼かれなかったのは陳のおかげだと、村人たちは感謝した。日本兵らが陳をつれて一軒一軒さがしあるいたということは、もしそうしなければかれらは放火して女性を追いだした可能性が高いからである。陳はこの村の出身者ではなかったが、村人たちは手あつい葬式でむくいた。
 張天池さんはこのように語った。(つづく)
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