「中国の旅」 本多勝一集14、虐殺の現場へ
敗戦後75年。日本軍の侵略行為を再確認するため、読書を開始。読了2020.8.10。この度、気になる場面を抜き書きする。


底本は、「中国の旅」(1977年すずさわ書店)、「中国の旅」(朝日文庫1981年)
本多勝一集版は朝日文庫版に、取材当時の文革のルポ、アルバニア取材、中国再訪の取材を追加している。写真も文庫版にはないものが多数収録されている。
<以下、本多勝一集より引用、抜き書き>
〇本多勝一さんの訪中の目的
戦争中の中国における日本軍の行動を、中国側の視点から聞きあるくことだった。それは、侵略された側としての中国人の「軍国主義日本」像を、具体的に知ることでもある。とくに日本軍による残虐行為に重点をおき、虐殺事件のあった現場を直接ききたいと考えた。こうした取材を思いたった主な理由
1)(略)だが、日中国交を問題とするとき、中国に侵略した日本の過去について、日本側がもし不問のまま、なんの責任ある具体的態度をしめさずにのぞむとすれば、好ましい進展はとうてい期待できない。日本政府はこの点について26年間ついに一度たりともなんらかの調査なりをしたことがなかった。ドイツとの著しいちがいである。またマスメディアにおいても、これを真に正面からとりあげ、それに応じた質と量をともなう記録として国民にしらせる努力をしたとは考えられない*。これは日本のすべてのジャーナリズムの責任でもある。
*過去のマスコミニュケーションにとりあげられたものに、光文社のカッパブックス『三光』(1954)があるが、これは撫順の収容所にいた日本の戦犯の告白を中国側が整理した資料の一部であって、日本のジャーナリズムによる自主的作業ではなく、内容には、中国での大きな虐殺事件の舞台があまり登場していない。(略)まもなく右翼の脅迫により絶版とされた。最近この本は『侵略』と改題して中国帰還者連絡会(正統)により新読書社から刊行されている。
4)「広島・長崎」はもちろん(略)重要だが、それにも増して重要なのは、侵略したアジア諸国にたいする加害者としての記録ではないか。日本の同盟国だったナチス=ドイツによる加害記録は日本でもたくさんでているが、当の日本軍のものが少ない。
・瀋陽(旧奉天)
P59すべての侵略側の権力が最初に実施する文化政策の重要な一つは教育制度であろう。植民地では必ず奴隷化教育が行われる。
(略)新しい教科書は「皇道建国」「同文同種」「日満一体」といった内容で充満しました。歴史科目の中から中国の歴史は抹殺されて、中国史といえば満州史のことであり、東洋史といえば日本史のことになります。国語とは「日本語」と「満州語」のことであり、中国語は抹殺されました。授業は日本語です。
中国語は使ってならない。人間は下劣でも、調子よく占領国の言葉をしゃべる者は、一般民衆をバカにし、侵略者の走狗になることが多かった。
P80*人間の細菌実験と生体解剖(731部隊の取材)
・瀋陽医学院(旧満州医科大)
P81日本帝国主義がここで中国人を材料にやっていた犯罪とは、侵略戦争のための細菌事件・生体解剖実験・監獄で殺された死体を使っての実験などです。
P82「北野政次(関東軍陸軍中将)は発診チフス予防接種に関する論文を書いた。野ネズミ(正式には満州産ハタリス)を利用してワクチンを試作した。吉林省の臨江地方で健全な中国人を材料にしてチフスを感染させ、生体実験をやった。
P89「北野」はハルビンの中房地方で細菌兵器の製造を直接指揮していた。そしてソ連の日本戦犯裁判記録では、関東軍の山田乙三司令官が、「北野」の犯罪について「1944年、中国の江南地方でペスト菌をつけたノミを飛行機からまいた」と証言している。
・731部隊:秋山浩「七三一部隊」が詳しい、森村誠一「悪魔の飽食」三部作 角川書店(1981-83)
吉田那津子「消せない記憶」日中出版1981:湯浅謙氏の生体解剖の告白記録
本多さんも北野氏へ電話取材の場面が記載してあるが、氏からの反論、回答はなし。
平岡正明「日本人は中国で何をしたか」でも追及
*撫順炭鉱
P106・ “募集”というときこえはいいけど、最も普通のやり方は騙して連れてくる。
P107・強制連行:日本軍の討伐で狩り集めた労工。奴隷狩り。
・万人坑:撫順だけで約30カ所。死体を何千何万と集めたところ。
・侵略された側の視点で書かれた撫順の本:松本辰夫「内なる撫順」文遊社
溥儀「わが半生」の中にも、撫順炭鉱の中国人労働者の使い殺されぶりが出てくる。
P110 *撫順の平頂山事件(ベトナムのソンミ事件に酷似した例)
炭鉱のすぐそばの村で行われた約3000人の皆殺し事件。抗日義勇軍ゲリラが平頂山と隣村から撫順の日本占領拠点に攻撃、退却。日本軍憲兵と警備兵は平頂山のすべての住民を殺すことに決めた。事件の殉難記念碑あり。
当時生存者の赤ん坊、夏維栄さん「絶対に階級闘争を忘れるな」
*鞍山製鉄所と旧「久保田鋳造」
P142 日本軍国主義者たちは、必要なのは鉱石、鉄鋼なのでであって、中国人の命ではないと、公言していた。当時の労働者は、よくこう歌っていたものです。「鞍山昭和製鋼所はこの世の閻魔殿、命とひきかえなしには飯も食えぬ。
P144 多くは拷問で殺されています。憲兵隊の建物にはいろんな刑具が用意されていて、水牢などもありました。1メートルちょっとくらいの水深で、すわると水没するために立ちっぱなしでいなければならない牢屋です。
*万人坑
P155鞍山からさらに70キロほど南の、瀋陽と大連のほぼ中間に大石橋という町がある。
鞍山鉄鋼広司大石橋マグネサイト鉱山を日本が経営中、三ケ所に万人坑ができた。
私が見たのは「虎石溝万人坑」である。アウシュヰ゛ッツ殺人工場を見たことはない。だから万人坑のような恐ろしい光景は、生涯で初めてだった。「不忘階級苦」(階級の苦しみを忘れまい)と正面に書かれた入り口からその中へはいったときの衝撃は、私の脳裏に終生消えることのないであろう擦痕を残した。累々たる骸骨の丘だ。その断面は、骸骨で地層ができている。これが万人坑とよばれる「ヒト捨て場」であった。
骸骨の一つ一つを見てまわる。針金で足をしばられた者が何体もあった。酷使によって倒れた者を、まだ生きているうちに捨てた証拠だという。胸の上に大きな石がのせられている者。生きたまま捨てて、大石で殺したあとだと、説明者が言った。両手で頭をかかえた格好の者。二人いっしょにしばられている者。
P160賃金なしのタダでこき使うことのできる労働者群が次の三種である。
1)犯罪人ー囚人の懲役労働だが、犯罪といっても、コメの飯を食ったから(経済犯)だの、三人かたまって話していたから(政治犯)だの、常識的「犯罪」の限界をはるかに超えるケースがほとんだった。
2)労工ー強制連行で狩り集めてきた者。まるで「奴隷狩り」のようにつかまるか、あるいは地主の命令で村の「割り当て」として”寄付”されて連行された者。
3)勤労奉仕隊ー満州国の軍隊の兵役検査で不合格となったため、徴用のかわりに服役させられた者。
P162労働時間は、時計を無視して星が基準とされた。星の消える夜明けに出勤し、暗くなって星が出はじめるころ仕事を終える。したがって冬でも12時間労働、夏だと15時間を超えるときがある。
P171大石橋の場合「虎石溝」「馬蹄溝」「高荘屯」の三つの万人坑のうち、虎石溝万人坑だけが参観できるような設備をととのえてあるが、あとの二つはそのままになっている。骸骨は虎石溝万人坑だけで1万7000人と推定されている。四川省から来た「華工」200人などは、全員が"消耗”されて捨てられた。
P187階級教育館にせよ万人坑にせよ、そこで教育の柱となっている言葉は「不忘階級苦」(階級の苦しみを忘れない)であった。
P188ところが「不忘階級苦」という視点に立てば「沖縄」と「真珠湾」とは対立するものではなく、同じ側のものとして、同時に叫ぶことができる。どちらも戦争に利用された犠牲者同士として連帯することができる。ゆくさきざきで、中国人から「日本軍国主義と、一般人民とは区別して考えます」という言葉を私たちはきいたが、それはこのような教育の結果であった。
P197*強制連行による日本への旅
朝鮮人や中国人が大勢強制連行され、日本の炭坑や大工事現場などで奴隷として酷使された事実*は有名
*たとえば中国人強制連行事件資料編纂委員会編『草の墓標』(新日本出版社)あるいは平岡正明『中国人は日本で何をされたか』(潮出版社)など参照。
また中国帰還者連絡会(正統)編の『中連ー日本軍国主義の告発は日中友好の原点である』の中にも、強制連行の実態が詳しく紹介されている。(略)ほかに金巻鎮雄『中国人強制連行事件』(みやま書房)、石飛仁『中国人強制連行の記録』(太平出版社)、赤津益造『花岡暴動』(三省堂新書)、野添憲治『花岡事件の人たち』(評論社)などもある。
北海道に強制連行され、脱走して北海道の山中に13年間かくれていた中国人「劉連仁」の稀有な記録として、欧陽文彬『穴にかくれて十四年』(三好一訳・三省堂)が出ている。
P245*南京
南京大虐殺として知られる事件が私たち一般日本人に明らかにされたのは、戦後の極東軍事裁判(東京裁判)であった。その記録のほかに、断片的な記録はいくつか刊行されている*。
*洞富雄『近代戦史の謎』(新人物往来社。のちに改訂して『南京事件』と改題)、エドガー=スノー『アジアの戦争』(みすず書房)など。最近の例では(雑誌は略)、黒田秀俊『南京・広島・アウシュヴィッツ』(太平出版社)、ティン=バーリイ『外国人の見た日本人の暴行』(龍渓書舎)などがある。
だが、南京で直接きいた被害者たちの体験は、それまでに私が読んだ限りでの記録から想像していた状況をはるかに超えていた。
P244虐殺は、大規模なものから1、2人の単位まで南京周辺のあらゆる場所で行われ、日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦をうけた。紫金山でも2000人が生き埋めにされている。こうした歴史上まれに見る惨劇が翌年2月上旬まで2カ月ほどつづけられ、約30万人*が殺された。
*南京事件で日本軍が殺した中国人の数は、(略)正確な数字はむろん知るよしもない。東京裁判のころの中国側(蒋介石政権当時)の発表は43万人(市民23万、軍人20万)だった。東京裁判判決では11万9000人だが、これは明白な証言にもとづくものだけなので、事実より少ないとみる研究者もいる。洞富雄『南京大虐殺の証明』朝日新聞社の分析は20万人にのぼるとみている。
写真の説明
P245生きたまま石油をぶっかけて焼き殺された
P246銃創による刺殺練習に生きた青年をつかう
殺した中国人たちの生首をぶらさげ見せしめに
P247殺した生首の記念写真
P248日本刀による首切りの写真
P249”ためし切り”
首切りのあと、日本刀の血のりを拭う日本兵たち
P250二人の日本兵がやった次のような「殺人競争」*を紹介した。
*[朝日文庫16刷からの追記]この百人斬り殺人競争については、本書の姉妹編ともいうべき『南京への道』(朝日文庫本多勝一集23巻収録)でより詳しく紹介したが、すでに明らかなように捕虜を裁判もなしに据えもの斬りにすることなど当時の将校には「ありふれた現象」(鵜野晋太郎氏)にすぎなかった。日本刀を持って中国に行った将兵が、据えもの斬りを一度もしなかった例はむしろ稀であろう。たまたま派手に新聞記事になったことから死刑になた点に関しては両少尉の不運であった。(後略)
「永利亜化学工場」では、日本軍の強制連行に抵抗した労働者が、その場で腹をたち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食ったという。
「日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦を受けた」ことについては、多くの写真が残っている。強姦された相手が裸で泣いている横で、自分も並んで記念写真をとった例が多い。強姦のあと腹を切り開いた写真、やはりそのあと局部に棒を突き立てた写真・・・。
P251婦女子を狩り集めて連れてゆく日本兵たち。「強姦や輪姦は7,8歳の幼女から、70歳を超えた老女にまでおよんだ」と説明されている。
集団で輪姦のあと皆殺しにした現場
P252強姦したばかりか、あとで腹を切り開いた
強姦記念に、その相手と一緒に自分も写真をとる
自分が強姦した女性を、記念に写真をとる
P272日本兵に殺された3人の幼児たち
穴を自分で掘らせ、生き埋めにしている日本軍
P274「また、中国で犯したかつての日本の罪悪は、軍国主義の罪悪であって、日本人民の罪ではありません。毛主席の教えに従って、私たちは現在も日本の人民と反動政府を見分けています。その反動政府の中でも、政策の決定者と従わされている人びととは区別しなければなりません。私たちがこうした過去の体験をあなたにお話ししたのは、日本人民に対する中国人民の友誼のあらわれでもあるのです」
以下、本多さんがこの章だけでも読んでほしいと週刊金曜日にコメントしていた。
P278*三光政策の村
いわゆる「三光作戦*」として知られる計画的な「作戦」や「政策」(略)
*中国で「殺光」(殺しつくす)・「焼光」(焼きつくす)・「略光」(奪いつくす)を三光といい、日本軍は「燼滅作戦」と呼んだ。「三光政策」ともいう。1940年ごろから、住民と共産軍とを離反させるために活発化した。考察・分析は平岡正明「日本人の三光作戦」(季刊誌『日本の将来第二号』)に詳しい。
「作戦」としての皆殺し、「政策」としての計画的虐殺が本格化するのは1940年ごろからである。住民と密着し、その強い支援で活躍する共産軍ゲリラに対して、日本軍はドイツ=ナチスがやった報復虐殺と同様、女・子供を含む全住民の皆殺し作戦をもって応じる。
陶磁器で有名な唐山から65キロ東北の「潘家峪」という山村へ向かった・・。
P288集められた村民たちは、放火されて周囲からいっせい射撃を受けた(展示館の絵)
半身不随者も火の中へ投げこまれた
P292母親から幼児を奪って殺そうとする日本兵
幼児をマタざきにして殺した
腹をさかれて胎児を出された妊婦
センタク用の大きな石を子どもに乗せてつぶしている兵隊たち(以上、展示館の絵)
P303足が一本しかない者、頭を切り落された胴体、腸がすっかり出てしまった者、燃えてただ黒い塊になった者・・。
P304虐殺現場に残る黒コゲ死体群の一部 黒コゲの死体がつみ重なる
P309 22人の復仇団が共同墓地の前で宣誓する 復仇団はついにあのときのカタキをうった
P314 脱出のとき、猛火の中で指を失った生存者の一人
P315 展示館(潘家峪階級教育展覧室)の入り口に並ぶ生存者の一部
P317 また日本の人民が、現在の日本軍国主義復活にたいして、私たちと同じ側に立って戦っていることも知っています。
P348*北京・盧溝橋 中国人民抗日戦争記念館の本館正面(写真)1987年完成
人民日報、兪成秀氏はヒロシマについてこうも語った。-「中国人民も日本人民も戦争被害者だったことは事実だが、ヒロシマの大虐殺と南京の大虐殺は性質が違いますね。ヒロシマにはある種の原因があった。しかし南京には、虐殺されねばならぬ原因が、なにかありましたか」
P349私がたずねて2カ月ほどのち訪中した村山首相も5月3日にここへ寄っている。
中国の近代史にとって日本の侵略がどれほどひどいものだったかは、その実態が日本でいかに認識されていなくても、中国内部では直接体験世代の高齢化・死亡による減少と反比例して、教育をとおしての認識継承が盛んになっている。教科書での記述はもちろんだが、こうした記念館や記念碑の類も各地で建設された。この中国人民戦争記念館は、そのなかでも最大規模のものである。
以下、再訪の詳細は週刊金曜日掲載分としてブログ投稿済。https://tatubuu.com/kagai/blog-entry-863.htmlブログに書いてないことを以下記す。
P353 侵華日軍細菌部隊分布示意図 孫呉、林口、牡丹江(海林)、ハルピン、長春、安達、ハイラル、大連、北京、南京、広州
P357 瀋陽「9.18事変(満州事変)陳列館」:倒された日本軍の記念塔が、当時のままの「鉄証」として残されている。
P358平頂山、のちに発掘されて記念館ができ、日本人旅行者で見てきた人も少なくないので、再訪したいと思っていた。平頂山記念館(撫順市博物館)
P363記念館内の累々たる骸骨群(写真)
P379虎石溝万人坑の記念館(営口市大石橋)中国にはよくあることだが、政府の政策によっても開放したり閉めたりする。
P395大連市金州 金州博物館 旅順虐殺の死体を埋めた万人坑の写真
「曲氏井」井戸 曲一族の女性たちは、日本兵の凌辱を拒んでこの井戸に投身自殺をとげた。
P398「日清戦争従軍写真帳ー伯爵亀井茲明の日記(柏書房)「日本軍は捕虜を縛ったまま殺害し、平民とくに婦人まで殺害したのは事実である」今日でも大連市では「ノギが来るぞ」と泣く子を黙らせる。
P402日本は(日清戦争で)旅順大虐殺をともなう侵略を中国にした上で莫大な賠償金をとり、それによって飛躍的な経済発展の基礎を固めた。だが、こんどは「侵略された側」たる中国が、日本に対する国家間賠償を放棄して平和条約を結んだ。日本側にその認識がなくても、中国側は日本の「援助」や「戦後補償」にこうしたj背景を忘れてはいない。


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