侵略の50年、敗戦から50年 週刊金曜日38号

2025年9月15日

週刊金曜日38号 1994.8.12より引用。 天皇制への書簡 
侵略の50年、敗戦から50年 大江志乃夫
 永い日本の歴史をふり返っても、伝説は別として、史料的に証明できる日本の外征戦争は、古代から明治維新まで二度しが記録されていない。最初は六六三年、百済の再興を支援するために朝鮮半島に出兵し、唐・新羅の連合軍に白村江で大敗した戦争である。二度目は一五九二年から一五九八年まで、豊臣秀吉による再度の朝鮮侵略戦争であり、朝鮮水軍が海上権を翻して日本軍の補給を絶ち、朝鮮各地に孤立した日本軍の敗勢が明らかなとき秀吉が病没したので、日本軍はいそぎ撤兵した。歴史的にみて、日本は決して外征戦争が好きな国でも、外征戦争が得意な国でもなかったことが、この事実から知られる。
 日本歴史のなかの特異な五〇年
 その日本に例外的な時代があった。一八九四年から一九四五年までである。今年、一九九四年からちょうど一〇〇年まえの一八九四年、日本は日清戦争の開戦で朝鮮侵略を開始した。それ以後、中国の民族反乱鎮圧の一九〇〇年の義和団戦争、一九〇四年開戦の日露戦争、一九一四年参戦の第一次世界大戦、一九一八年のロシア革命干渉のシベリア出兵、一九二八年の中国革命干渉の山東出兵、一九三一年の満州事変、一九三七年戦の日中戦争、一九四一年開戦の対米英戦争をへて、一九四五年の無条件降伏にいたる。(略)
 しかし、日本が近代国家として発展するために、戦争は必要だったのだろうか。
 日本とはほおなじ時期に欧米に国をひらいたアジアの独立国に、一八五五年にイギリスと通商条約(ボウリング条約)をむすんだタイがある。(略)アジア・太平洋戦争に際して、タイは日本の武力的強制により日本の軍事行動に追随したが、仏領インドシナ(インドシナ半島)との国境紛争における武力衝突を除いては、本格的を対外戦争を起こしたことはなかった。(略)
 一〇〇年前、一八九四年七月二三日
 近代日本の戦争と侵略の最大の被害者も朝鮮であった。日清戦争は朝鮮の支配をめぐって、朝鮮国内を戦場として開始された戦争であった。日本軍が最初に戦闘行動の対象としたのも、清国軍ではなかった。一〇〇年まえの一八九四年七月二三日未明、ソウル南部に駐屯していた日本軍は、連隊長が指揮する一個大隊に朝鮮王宮(景福宮)を夜襲で占領させた。王宮警護の朝鮮国軍は、当然、日本軍の奇襲攻撃にたいして抵抗し、戦闘がおこなわれた。日本軍が王の身柄を確保し、戦闘中止命令を出させたのち戦闘は終息した。対清開戦にあたって、日本軍の最初の作戦行動が、朝鮮王宮を占領して国王の身柄を約束するために、朝鮮国軍との交戦によって始められた事実は、もっと強調されてよい。(略)
 一九〇〇年から翌年にかけて、つまり一九世紀の最後の年と二〇世紀の最初の年に、地球上で、南アフリカでイギリスがオランダ系ボーア人の植民国家を併合するためのボーア戦争をたたかい、アメリカがスペインから解放されたフィリピン独立戦争を鎮圧するためにたたかい、日本軍を主力とする列国連合軍が義和団戦争をたたかった事実は、特筆すべきできごとであった。(略)
 イギリスは、ロンドンを世界の金融市場の中心たらしめている中国金融市場の保護を日本にたよることになり、一九〇二年に日英同盟をむすび、日本を「極東の憲兵」として、中国の民族運動とロシアの中国侵略の防壁にしたてた。その結果が一九〇四年に始まる日露戦争であり、旧露戦争は、公然たる朝鮮の日本植民地併呑戦争であった。それ以後、朝鮮国民の惨澹たる苦難の歴史が始まる。同時に、日露戦争によって、日本はロシアの利権であった中国東北南部(南満州)の利権を獲得した。朝鮮を「日本の利益線」とした日本が、南満州を「日本の生命線」とするにいたった。なぜ「生命線」なのか、「生命線」が日本の国家的存立にとってどのような意味をもつのか、説得的な説明がまったくないままに、日本は「生命線」を守れというスローガンのもとに満州事変を引き起こし、昭和の一五年戦争に突入した。
 日本の植民地支配を特徴づける「皇民化」
 (略)しかし、日本の朝鮮植民地支配の実態研究でさえ、十分にすすんでいるとはいいがたい。(略)
 たとえば、憲兵政治の全時期を一身に担った人物の経歴や業績さえも、いまだに明らかでない。第三次日韓協約締結後に「韓国駐箚憲兵に関する件」が定められ、内地および台湾の憲兵の任務が「主として軍事警察を掌り」と定められていたのにたいし、「韓国に駐箚する憲兵は主として治安維持に関する警察を掌り」と、その主任務が治安警察にあることを明示した。このとき第一四憲兵隊(韓国駐箚憲兵隊)長に任命されたのが、日露戦争中にヨーロッパで謀略工作に活躍した明石元二郎少将(注4)であったが、明石のもとで第一四憲兵隊副官に起用されたのが予備役憲兵少佐山形閑であった。
併合断行の前提として寺内が韓国統監に就任すると、明石が韓国駐箚軍参謀長から韓国駐箚憲兵司令官兼警務総監になり、山形はそのもとで高等警察の主任となり、明石は就任訓示で「当司令部に於ける高等警察の事務は主任を山形中佐とし…就中予の最も重きを置くものは、韓国の治安並に危険の予防なりとす。諸子須らく高等警察に深き注意を払ふを要す」とのべた(『明石元二郎』下)。 山形は間もなく憲兵大佐、総督府警務総監部の筆頭課長である高等課長となり、一九一七年四月の定年までその職にあり、少将に進級して退職した。山形こそは、朝鮮の憲兵政治時代の全期間を人格的に表現した人物であった。しかし、この山形という憲兵将校の経歴・業績がいっさい明らかでない。なぜなら、将軍にまで昇進した山形は一度も陸軍の現役将校であったことがなく、予備役将校のまま憲兵大佐にまで昇進したというめずらしい経歴の持主であり、陸軍現役将校の人事名簿にその名が登場しないからである。朝鮮植民地支配の現場の要の地位にありつづけた、この謎めいた高官の素性さえ明らかにできていないことに、現在の日本の植民地支配研究の立ち遅れた側面がしめされている。(略)
 この「皇民化」すなわち天皇の忠実な兵士となって戦場に送られ、死ぬことが朝鮮植民地支配の究極の目標とされ、したがってその実現をめざす政策を特徴づけた。天皇の軍隊の兵士となって死ぬことが「皇民化」の頂点であれば、戦争協力のための労働力として強勧徴用されて各地の鉱山や飛行場建設のために連行され、あるいは天皇の軍隊の兵士たちの獣的な欲望充足のために女性が強制連行されるのは、その対照としての底辺的な「皇民化」であり、これまた有無をいわさぬ強制であった。
 「公民化」の代償の残酷さ
(略)戦争末期に、私は九州の三池炭鉱で入坑をまつ、その多くが強制連行によると思われる朝鮮人労働者の無言の列に接したことがある。それは、これらの労働者群にもつうじる、残酷さと無念さであろう。ビルマ戦線で総くずれの日本軍が退却するにあたって置きざりにされ、シッタン川の濁流に飲みこまれて溺死した朝鮮人「慰安婦」の一群、太平洋の孤島の飛行場建設に駆りだされ、守備隊とともに「玉砕」を強いられた朝鮮人徴用労働者、いまなおサハリンに置きさられたままの朝鮮人強刺連行労働者、戦後に生きのこることができたこれらの人々の家族や仲間にとって、日本の「戦争の時代」の五〇年は、日本の降伏をもって終わらなかった。
 日清戦争に始まる「戦争の時代」の五〇年、日本の敗戦後の平和の五〇年という考え方は、平和と繁栄の戦後五〇年を享受した日本人についてのみ言うことができる時代の区切り方であり、日清戦争に始まる日本の侵略の苦難をなめた側には、いまだに日本の「戦争の時代」の二〇〇年がつづいている。この戦後五〇年の受止め方の違いに、日本人とアジアの諸国民の歴史感覚の相違があり、改めて日本の戦後責任、そして天皇の戦後責任が問われている。
 (注4)あかし もとじろう一八六四~一九一九 一九〇四年の日露開戦ではストックホルムで、革命下のロシア内情の諜報活動に従い、欧州各地の過激派と接触、革命家に資金を提供するなど、ロシアの後方撹乱工作を展開した。八年韓国駐箚軍参謀長、一〇年同憲兵隊司令部、警務長官を兼務、日韓併合時の朝鮮義兵運動を弾圧した。
ーーー
おおえ しのぶ・一九二八年、大分県生まれ。茨城大学名誉教授。著書に『靖国神社』『日露戦争と日本軍隊』『参謀本部』などがある。
ーー(引用終わり、全文はこちら、ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります)
一読した感想。
・国民に何の説明もないまま、自衛隊の海外派遣に猛進する安倍がダブル(なぜ国内に1年分の石油備蓄があるのにホルムズ海峡の掃海艇派遣が必要か)。
・「皇民化」すなわち天皇の忠実な兵士となって戦場に送られ、死ぬことが朝鮮植民地支配の究極の目標とされたが、いまや日本国民がそのターゲットになりつつある
・このような研究を続ける学者は自民党にとり都合の悪い存在であるため、人文学系学部の廃止を国立大学へ指示している。