タブー無き第四権力、新しい日刊新聞のために1

2025年9月22日

XY新聞の原典をあたれる本です。
<出典>
朝日文庫 本多勝一著 『滅びゆくジャーナリズム』 第1刷
朝日新聞社  ISBN 4-02-261165-0 C0195
<同内容収録>
本多勝一集 第18巻 『ジャーナリスト』
朝日新聞社 ISBN 4-02-256768-6
本多勝一著 『貧困なる精神 J集 - ジャーナリスト党宣言
朝日新聞社 ISBN 4-02-256636-1
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ジャーナリスト党宣言- タブーなき第四権力、新しい日刊新聞のために

 見たい映画がありながら、雑誌連載の締め切りや単行本・文庫本のゲラ読みその他に追われて機会を逸する生活がつづき、このところ二ヶ月に一本以下しか見ていない。そんな中で強い感動をうけたひとつは 『JFK』 (オリワ゛ー=ストーン監督・ケビン=コスナー主演)であった。
 手元にあってまだ読まないでいたジム=ギャリソンの原著 『JFK- ケネディ暗殺犯を追え(*1) 』 をさっそく読みはじめた。原著の中で特に興味深い、というよりも衝撃的だったのは、これは映画にはあまり出てこなかったが、ギャリソンに対するアメリカ合州国のマスメディアの態度である。かの 『ニューヨーク=タイムズ』 や 『ライフ』 や 『NBC』 をはじめとする代表的大新聞・大雑誌・大放送局が、片端からワシントン政権の体制側に立ってギャリソンを攻撃したのだ。とくに 『NBC』 の歪曲・でっち上げによる攻撃は、日本でいえば株式会社文藝春秋による二十余年間にわたっての私に対する誇張・歪曲・捏造(ねつぞう)・改竄(かいざん)攻撃を連想させた。もっとも、さすがに合州国が日本より ましだと思ったのは、合州国の連邦通信委員会が 『NBC』 に対して、ギャリソンの反論のための放送時間を同じメディアで提供するよう命じ、実行された点である。(これに反して日本では東京地裁の筧 康夫(けかひやすお)裁判長が、文春の悪質な違法行為を支持し、著者の意図とは反対になるような改竄さえ可とする ” 画期的 ” 判決を下して、私の反論権を一切認めなかった。もちろん私は控訴し、きたる七月一日〔1992年〕に東京高裁で第一回法廷が開かれる。)
 ただ、地方検事ギャリソンによる献身的調査の結果としての 「軍産複合体やCIAによる陰謀」 説は、かなり早い時期に状況証拠として出されている(たとえば大野達三 『アメリカから来たスパイたち』 =新日本新書=など)。私自身も二〇年ほども前の小論 「戦争を起こされる側の論理」 ( 『時代』 1971年7月号)でそのような見方をしていたので、この映画や本は 「やはりそうだったのか」 といった確認に近い思いであった。つまり感動は大きくても、初めて知ったというような驚きはなく、したがって前述のようなマスメディアの行動学にむしろ より大きな衝撃をおぼえたのである (*2)。
 地方検事ギャリソンの活動を見るとき、マスメディアが権力に癒着した社会の恐ろしさが改めて理解されよう。権力の腐敗したがることがほとんど法則的である以上、その監視機関の役割を果たすべきジャーナリズムもまた 法則的に権力を批判しつづけなければならず、いささかなりとも癒着があってはならない。言葉をかえれば、タブーのあるマスメディアは情報産業ではあっても、ジャーナリズムではないだろう。ケネディ暗殺をめぐるアメリカ合州国のマスメディアは、もはやジャーナリズムではなかった、とさえいえるようだ。ソ連にもむろんジャーナリズムはなかった。戦争中の日本やナチ=ドイツにもまるでなかった。
 では、今の日本はどうなのか。
 さきにこのコラムで書いた 「第四権力の消滅 (*3)」 で、日本では三権分立がなくなって一権集中となり、第四権力として 「権力への監視機関」 たるべきジャーナリズムもその補完物に堕したことを論じた。ラディカルな体制批判を貫く勇気ある知識人もきわめて少なく、労働組合も学生も弱体化し、いま平和憲法さえ消滅して自衛隊海外派兵(PKO法案)の寸前である。
 日本のジャーナリズムが、もはや体制側の情報産業と化していることはこれまでにも指摘してきたが、これに対して再生なりペレストロイカ(改革)なりを期待することは、いまでは不可能な段階に達しているとみてよい。系列の民放(とくにテレビ)をはじめとして、さまざまな分野の商売に多角的に手を出し、コングロマリット(複合企業)化した新聞社は、はてしなき経営の論理の中の一歯車としてはめこまれ、関連各分野の企業との間に大小のタブーがネズミ算的に増殖し、ジャーナリストが冷遇あるいは敬遠されてゴマスリ記者が好遇されるようになってしまった。ソ連型組織論とは最も遠いハズだったこの国の内実が、世界に冠たるそのメダカ性とも相俟(あいま)って、奇妙なことにまさにソ連型一権集中社会と化したのである。朝日新聞社が他に赤字雑誌をかかえていながら、特に 『朝日ジャーナル』 を狙って赤字を理由に事実上の廃刊に追い込んだのも、十数年来すすめられてきたこうした流れの中の必然的政策にすぎない。
 コングロマリットをジャーナリズムに戻すことが不可能となれば、ジャーナリストは、また真のジャーナリズムを望む読者は、どうすればいいのか。なにか方法があるのだろうか。
 答えはかんたんである。たとえば司法権力が一権集中の歯車化したからといって、もうひとつ別の司法権力を分離独立させることは、一国の権力機構をくつがえす革命を必要とし、あまり 「かんたん」 にはできないだろう。しかし出版や新聞発行の自由は、少なくとも憲法は保障しているし、現に新雑誌が次々と創刊されている。日刊新聞もその ひとつにすぎない以上 「答えはかんたん」 であり、たんに真のジャーナリズムをめざす日刊紙を別に創刊すればよいのだ。(週刊の新聞では状況への影響力に限界がある。)
 限りなく創刊される雑誌に比べて、本格的日刊紙は(一部のスタンド売りを別として)なぜ戦後創刊されなかったのか。経済上・機構上のさまざまな困難はあっただろう。その 「困難」 が一種 ” 張り子の虎 ” となっていたとみえ、実際に創刊しようと動いた例が絶無に近かった。ごく一部にあったが、これは既成の企業を頼りとする他力本願だったことを主要原因として不成功に終わった。実際 「他力」 であっては、創刊はできてもオーナーの胸先三寸によっていつ情報産業化するかわからぬ日常におかれる。また政党の機関紙がジャーナリズムと別次元であることはいうまでもない。
 以上のように見てくれば、タブーなき日刊新聞のイメージもおのずと輪郭が描かれてこよう。自由なジャーナリストと、その活動の場を保証する新聞と、そのような新聞を求める読者の有機的結合。それは必ずしも大部数を必要としないが、かといって自慰的小部数やせまい地域紙では意味がない。理想的には、読者もまた編集者と経営者とを兼ねることであろう。
 外国で最近創刊されて成功した例に、イギリスの 『ザ = インデペンデント』 紙や韓国の 『ハンギョレ』 紙などがある。どちらもジャーナリストとしての高い志が動機となっているが、 『ハンギョレ』 の方が 「一切のタブーを排する」 点で理想に近い。なぜなら 『ハンギョレ』 は、全読者を株主とするところからスタートしているからである。資金の主要出所が読者なので、外部勢力(企業や政党や圧力団体等)に対して顧慮する必要がない。
 これまでに私は、たとえば本誌( 『朝日ジャーナル』 )の下村編集長との対話(1992年1月17日号=本書収録)などで、新しい日刊新聞創刊の可能性について漠然とした夢のような、あるいは冗談半分のような言い方でふれてきた。しかし本誌の最終号となるこの場で、もうすこし具体的なかたちを読者に紹介し、本当に実現する段階にもし到った場合にご協力あるいはご支援をお願いすべく、そのための 「お知らせ」 も兼ねることにしたい。いま同志たちとともに叩き台をつくっている新しい日刊紙の、ごくおおざっぱな輪郭はつぎのとおりである。
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以下に次のの「XY新聞とはなにか」が続く。
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最後に注がつく
*1) ジム=ギャリソンの報告の原題は 『On the Trail of the Assassins’ – My Investigation and Prosecution of the Murder of President Kennedy』 (岩瀬孝雄訳・ハヤカワ文庫・1992年)。
*2) とはいうものの、日本のアメリカ派文化人などが絶賛する 『ニューヨーク=タイムズ』 の正体と限界についてはすでに私も19年前の小説 「 『ニューヨーク=タイムズ』 考」 ( 『潮』 1973年11月号=本多勝一集第18巻 『ジャーナリスト』 収録)で指摘したことがあり、ギャリソンへの態度も 「確認」 に近いものの、これほどどは思わなかった。
*3)  『朝日ジャーナル』 1992年3月10日号。よりくわしくは 『グリオ』 第三号(平凡社)に同タイトルで発表した(本書収録)ので、本誌のそれは序論にあたる。
*4)  「ジャーナリスト党」 はこれが初出でない。本多勝一集第18巻 『ジャーナリスト』 での対談者・小和田次郎氏の発言参照。