遼寧省2025.6訪中団5-3瀋陽、奉天捕虜収容所
パンフレットより、「瀋陽連合軍捕虜収容所は、瀋陽市大東区地壇街30-3号に位置し、第二次世界大戦中に日本が瀋陽に設置した捕虜収容所で、太平洋戦線からの連合軍捕虜(米国、英国など)を収容するために設置されました。当時は奉天捕虜収容所として知られていました。中国東北部における日本軍の中央捕虜収容所として、収容所は5万平方メートル近い面積を占め、米国、英国、カナダ、オーストラリア、オランダ、フランスの6カ国から2,000人以上の捕虜を収容していました。現存する主な建物としては、第1兵舎とその付属建物、日本軍の事務所と付属建物、捕虜収容所病院、捕虜収容所給水塔、ボイラー室の煙突などがあります。ここは、第二次世界大戦中に日本が本土および海外占領地に設置した18か所の捕虜収容所の中で最も保存状態が良く、2008年に遼寧省の文化財保護単位に指定された。」
営業時間:夏季 9:00~17:00
冬季 9:00~16:30、月曜定休(最終入場は閉館時間の30分前です)お問い合わせホットライン:88590530
中)煙突 第二次世界大戦中に瀋陽にあった連合軍捕虜収容所の現存する建物の1つ。収容所の暖房用ボイラー室の付属建物で、高さは29.5メートル。
左)第二次世界大戦はドイツ、イタリア、日本のファシズムが発動した空前の大災難だ、戦火は欧州とアジア、アフリカの3大陸および大西洋や太平洋、インド洋などの広大な地域にまで広がり、全世界の20億人以上が巻き込まれ、約5000万人が命を落とした。
1941年12月7日(米国時間)、日本は米太平洋海軍基地のあった真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が勃発した。太平洋戦争の初期、数多くの連合軍兵士が敗退によって日本軍の俘虜となった。日本は連合軍の俘虜を拘禁、酷使するため、本土や海外の占領地に200カ所以上の俘虜収容所を設置した。この間、日本軍は俘虜の取り扱いに関する国際公約に違反し、 連合軍の俘虜に残酷な虐待や精神的な苦痛を加えたため、虜の死亡率は非常に高かった。
「瀋陽第二次世界大戦俘虜収容所はもともと「奉天俘虜収容所」といい、日本軍が中国東北地方に設置した中央俘虜収容所だ。この虜収容所の本所は瀋陽にあり、分所は吉林省XX市と遼源市に設立された。1942年11月から1945年8月にかけて米、英、カナダ、オーストラリア、オランダ、フランスなどの計2000人余りの虜を拘禁した。瀋陽第二次世界大戦連合軍俘虜収容所は拘禁した連合軍虜の出身国数が最も多く、階級が最も高く、人数が最も多かった収容所であり、第二次世界大戦中の日本による虜収容所の典型だ。
中)太平洋戦争初期、連合軍は米国、英国などが「先欧後亜 (アジアより欧州の戦線を優先する)」戦略を実行したため、大きな後退を強いられました。その結果、日本軍は1941年12月から1942年5月にかけて、タイ、香港、マラヤ、シンガポール、ミャンマー、フィリピン、オランダ領東インド、グアム、ウェーク島など、多くの国と地域を占領しました。連合軍の将兵の多くが日本軍の捕虜となりました。
左)バターン死の行進から奉天俘虜収容所までの経路図
中)1942年4月9日、バターン半島の7万人以上の米・フィリピン連合軍は全力を尽くして日本軍と戦った末に抵抗をやめ、俘虜となった。翌10 日、日本軍は米・フィリピン連合軍の俘虜をルソン島中部のオードネル俘虜収容所へ追いやり、歴史的な惨劇「バターン死の行進」を始めた。「死の行進」の過程で3万人近い連合国軍俘虜が日本軍の暴行で死亡した。
1942年10月7日。日本軍はオードネル俘虜収容所から2000人近くを選び出し。「地獄の船」と呼ばれた「鳥取丸」に乗せた。俘虜らはこの船でマニラ港を離れ。1カ月余りの航海を経て奉天(現在の瀋陽)に押送された。右)バターン死の行進地図
左)感染症が蔓延する環境を描いたこの絵は、俘虜が描いた。連合軍俘虜を運んだ「鳥取丸」は環境が劣悪で、船体には十字のマークを掲げなかったため、連合軍の潜水艦から攻撃された。中)船は一日中北へ航海した。。2人の捕虜が下痢にかかり、再び高尾港に停泊した。重症の捕虜は上陸させられた。下痢で死亡した人々は海に投げ込まれた。船が釜山港に到着すると、約200人の重病の捕虜が病院に送られ、さらに500人以上の捕虜が日本へ移送された。残りの約1200人の捕虜は下船し、日本軍によって徹底的に消毒された。午後3時15分、捕虜たちは中国行きの列車に乗り込んだ。ソウルを通過する際、シンガポールで捕虜となっていたイギリス人捕虜100人が同乗した。
1942年11月11日、列車は奉天に到着した。連合軍捕虜は、かつて東北軍の駐屯地であった奉天の臨時収容所、北大営に連行された。
右)対外戦争の遂行のため、日本は「戦争をもって戦争を養う」という政策を実行した。俘虜で軍需工場の労働力需要を満たした。
中)日本軍関東軍司令部は731部隊に「奉天俘虜収容所」へ人員派遣の命令を下した。
左)米国人俘虜に拘束された「奉天俘虜収容所」松田元治所長(中央)。
左)序文 1911年の革命後、フランスでは勤労学生運動が盛んに行われました。ロシアの十月革命と五四新文化運動の推進の影響を受けて、1919年から1920年にかけて熱狂的なブームが巻き起こり、20組1800人以上がフランスに渡って勤労と勉学を行いました。フランス勤労学生運動は、蔡鶴森、趙世炎、周恩来、鄧小平、陳毅、 聶栄震、李富春といったプロレタリア革命家だけでなく、 多くの優れた文化人、科学人材を輩出しました。彼らはフランスに渡って中国共産党を結成し、勉学を終えて中国に帰国するまで、中国人民の民族復興の夢を描き、 中国の「鎖国」から「開放」へ、「後進」から「繁栄」への偉大な歴史的飛躍を共に歩みました。フランスの勤労学業運動は、中国近代史におけるハイライトと言える。中)劉少奇 右)毛沢東
左)周恩来 中)鄧穎超 右)鄧小平
食事の一例
ネオンも明るい瀋陽市街、右)朝食の一例
遼寧省 更新中















































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