遼寧省2025.6訪中団1、撫順戦犯管理所

2026年6月7日

 撫順の奇蹟を受け継ぐ会関西支部の第9次訪中団に昨年6月参加しました。中国東北地方の遼寧省の撫順、瀋陽、北票、阜新、旅順、大連を巡る7日間です。瀋陽戦犯管理所や万人坑、旅順監獄など実り多い訪問になりました。だいぶ日が経ちましたが少しづつ綴ります。

6.16関空から中国南方航空で瀋陽へ、すぐバス移動しバスで撫順へ移動。ガイド張超さんの話、最初に案内されたのが「いのちの輪」、巨大な輪っか。過去の市長がワイロで捕まる前に建てたそうだ。ちょっとした名所のようです。車のプレートは青がガソリン車、緑が電気自動車、電気が多い、マンタンで500Km走る。東北の三省、遼寧省の省都は瀋陽(戦前は奉天)、吉林省は長春(旧 新京)、黒龍江省はハルビン(冬の氷祭り)。中国は墓に松を植える(いつも緑だから)、よって日本のように庭に松を植えない。

撫順では煤都賓館に宿泊。戦前の旧撫順大和ホテル(炭鉱倶楽部)で戦後も毛沢東、周恩来など中国共産党の要人が泊まっている。

6.17翌朝撫順の戦犯管理所へ、日本軍戦犯は監獄とは思えない人間的な扱い(白米を食べ、風呂など)を受け、世話をする側の管理所職員には反発があったが周恩来の指示があったとか。
 以下館の序文より、撫順の戦犯管理所の前身は、1936年に日本軍が愛国的な中国兵士や民間人を収容するために建設した撫順刑務所である。中華人民共和国建国後、1950年7月から1964年3月までの間、中国侵略に関与した約1000人の日本人戦犯を収容し、更生させた。
 序章
 日本帝国主義による中国への侵略には長い歴史がある。
19世紀後半、清朝政府の腐敗と列強の侵略的な拡張主義政策により、中国は列強間の争奪の的となった。明治維新を経て台頭した日本は、中国に対する侵略の先鋒となった。1894年、日本は日清戦争で遼東半島を占領した。ロシアなどの介入により一時的に撤退したものの、10年後の日露戦争で遼東半島における「権利」を回復し、関東租借地、南満州鉄道、およびその「属領」を占領し、そこに軍隊を駐留させた。これ以前にも、日本は1900年の八カ国連合軍による中国侵略に参加することで、中国の中心部、すなわち天津や北京郊外に恒久的な軍事拠点を築き、後の拡張主義的な侵略戦争の基礎を築いていた。
 1931年9月18日の夜、周到な計画のもと、日本軍は中国東北部の瀋陽で「9・18事件」を起こし、遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省を急速に占領した。1937年7月7日には「盧溝橋事件」を起こし、中国に対する全面的な侵略戦争を開始した。世界中の平和を愛する人々の支援を受け、中国人民は敵への憎しみで団結し、14年にわたる苦難の抵抗の末、ついに日本軍の侵略を打ち破った。
 引き渡し受け入れと拘禁
中華人民共和国建国後、中国とソ連は、ソ連極東に収監されていた一部の日本人戦犯を中国へ引き渡すことを決定した。周恩来首相の直接指導の下、関係部署は迅速に引き渡し準備を進めた。1950年7月、中国とソ連間の引き渡しを経て、日本人戦犯は東北戦犯管理センターに収容され、中国における教育と更生の道を歩み始めた。

収監した一部の日本人戦犯の紹介

・武部六蔵 傀儡政権である満州国務院総務部長
武部大蔵は、日本帝国主義の中国侵略戦争の期間中、日本帝国主義の中国に対する侵略政策を忠実に執行した。日本の中国侵略の時に中国東北地区の最高行政長官として、偽満洲国の傀儡政府を操り、国家の主権を奪った。国際法の準則と人道主義の原則に違反して、人民を弾圧、奴隷としての使役、(思想やアヘンなどで)堕落させ、人民の奴隷化、兵役や労役の強制徴発、東北地区の物資略奪、人民財産の搾取などの法令政策に関する決定を行い、執行を推進した。また、「開拓移民」政策を実施して、農民の土地を奪い、重大な戦争の罪行を犯した。

・古海忠之
1900年生まれ、京都府出身、東京帝国大学法学部卒業。1932年に中国へ、1945年9月長春市内にてソ連赤軍により逮捕、1950年7月に中国へ引渡。
古海忠之は在任期間中に日本帝国主義の中国に対する侵略政策を忠実に執行した。東北地区の経済をとりしきる行政長官となり、国際法の準則と人道主義の原則に違反して、東北地区の物資の略奪、人民財産の搾取、労役や使役の強制徴発、(思想やアヘンなどで)堕落させ、人民の奴隷化、人民を弾圧する各種政策法令と措置の制定に関わった。また、「開拓移民」政策を実施して、 農民の土地を奪い、重大な戦争の罪行を犯した。

・鈴木啓久、1890年生まれ、福島県出身。陸軍中央幼年学校(のちの陸軍士官学校)卒業。1934年に中国へ侵略、1945年ソ連赤軍により逮捕、1950年7月に中国へ引渡。
在任期間中に、中国への侵略戦争を実行し、国際法の準則と人道主義の原則に違反して、所属部隊を指揮し命令を下し、中国の町や村を灰燼と帰し、人民の財産の略奪、破壊、無人区をつくり、平和な住民の追い払い、殺害、虐待し、さらに毒ガスを撒き散し、平和な住民に軍事労働を強制し、部下の婦女子凌辱 (強姦など)を容認するなど重大な罪行を犯した。

・潘家戴村虐殺事件 鈴木啓久は1942年10月28日に「村を完全に殲滅せよ」と命令した。1280人の住民が銃殺、つるはしとシャベルで殴打され、生き埋めにされ、焼き殺されるという残虐な方法で殺害され、抗日戦争の最も恐ろしい悲劇となった。

・上段村での虐殺事件
1939年4月17日、藤田茂は部下を率いて我がゲリラを追跡した。山西省安県上端村を通過する際、村人がゲリラを匿っているという口実で、残忍な「三光政策」(皆殺し、皆焼き払い、皆略奪)を実行し、物資を強奪するとともに村人の全滅を命じた。100人以上の村人と12人の逮捕者が殺害され、100軒以上の家屋が焼き払われた。
・藤田茂  中国侵攻時の日本陸軍第59師団司令官(中将)
1889年生まれ、広島県出身。陸軍騎兵実施学校(当時:後の陸軍騎馬学校)卒業。1938年中国へ侵略、日本軍の中国侵略期間は、大佐・連隊長、少将・旅団長、中将・師団長等を歴任。1945年8月ソ連赤軍により逮捕、1950年7月中国へ引渡。
藤田茂は在任期間中に、中国への侵略戦争を実行し、国際法の準則と人道主義の原則に違反して、所属部隊へ指揮をとり命令を下し、 平和な住民と捕虜を虐殺した。また、強奪、放火、人民の財産を破壊を行った。さらに平和な住民に軍事労働を強制し、部下の婦女子凌辱を容認するなど重い罪行を犯した。

・趙一曼(旧名:李坤泰)は四川省宜賓県出身の女性で、若い頃から革命の道を歩み始めました。1926年、武漢軍政学校に入学。その後、党組織によってソ連に留学しました。帰国後、上海で中国共産党中央委員会の秘密工作に従事。9・18事件後、中国東北部に派遣され抗日活動に従事。中国共産党珠河県中央委員会の特別委員、東北抗日連合軍第三軍第三連隊の軍司令官などを歴任しました。

・大野泰治、1902年生まれ、高知県出身。日本の中国侵略戦争期間中、偽満洲国濱江省公署警務庁特務科外事係長、偽蒙古連合自治政府晋北政庁警務庁警務科長などを歴任。日本の敗戦後は、閻錫山軍に入隊し、「山西省産業技術研究社」の少校・編集員等を歴任。1950年12月12日に逮捕され、太原戦犯管理所に収監、1956年撫順戦犯所に移管された。
大野泰治は日本帝国主義の中国侵略期間中、国際法の準則や人道主義の原則に違反して、偽満洲国の警察隊を操り指揮を取って、捕えた人を拷問、虐殺した。また、略奪、放火、人民財産の破壊や強制労役などの重大な罪行を犯した。
1936年2月、大野泰治は偽満洲国濱江省公署警務庁特務科外事係長の在任中に、残忍な手段で重傷を負っていた東北抗日女性英雄の趙一曼を自らが拷問した。そして、「趙一曼はもう利用価値がない」と上司に報告し、趙一曼は殺害された。

・榊原秀夫  関東軍第731部隊第162分遣隊少佐
1908年生まれ、岡山県出身。岡山医科大学と日本陸軍軍医学校第15期卒業。日本の中国侵略期間中、関東軍第10師団防疫給水部部長,少佐、関東軍第731部隊162支隊支隊長・少佐などを歴任。 1951年に逮捕された。
榊原秀夫は、日本帝国主義の中国侵略戦争に参加したときに、国際法の準則と人道主義の原則に違反して、細菌兵器の製造及び細菌戦の準備などに携わり、重大な罪行を犯した。
1944年、榊原秀夫は黒龍江省林口県内で部下を指揮し、大型設備を利用して強力な伝染病病源体コレラ菌、腸チフス菌、パラチフス菌、パラチフス菌と赤痢菌などを培養した。また、1945 年の1月から6月まで、コレラ菌、腸チフス菌、パラチフス菌など870試験管分を生産して、細菌戦に使用する準備をした。
1945年3月、榊原秀夫は支隊内に保存していた2本の試験管に入った腸チフス培養菌とバラチフス菌を731部隊第一部毒力鑑定班に送付、逮捕した抗日軍民に、細菌効能鑑定の人体実験を行い、4人の人命が奪われた。その後、榊原秀夫は生産した細菌の毒力基準が確認され、細菌戦に適合するとの鑑定結果通知を受けた。
 中国侵略日本軍第731部隊162支隊の少佐支隊長であり、1956年、我が最高人民法院に13年の有期懲役を判決された。1956年11月18日、毛沢東主席が日本岡山学術代表団を接見する時、団長は、「岡山県の戦犯である榊原秀夫が今とても重い肺病を患い、その妻が子と3人で日本でセーターを編むことによって暮らし、生活がとても苦くて、繰り上げて釈放するように望んでいる」 と言い出し、1957年、その家族は毛沢東主席に手紙を書いて、この情況をも反映し、これに対して、毛沢東主席は特に外交部の工作員に調べるように言い聞かせて、そして指示をした。1957 年、榊原秀夫は毛沢東主席、周恩来総理の直接の関心のもとで刑期終了前に釈放され日本に帰国した。

・島村三郎
島村三郎は1908年、日本の高知県に生まれました。1945年9月にソ連赤軍に逮捕され、1950年7月に高知県に移送されました
島村三郎は中国侵略において、国際法および人道原則に違反する犯罪を犯しました。彼は我が国民の逮捕、拷問、殺害を主導し、また自らも関与しました。1939年1月から1940年4月まで、傀儡政権である三江省警察局の特別捜査部長を務めていた島村三郎は、我が国民を無差別に逮捕、拷問、殺害しました。1939年1月から11月にかけて、2995人の反日活動家および平和を愛する市民が逮捕され、うち14人が殺害され、272人が傀儡政権の裁判所に送られました。

・佐々木到一
中国侵攻時の日本陸軍第149師団司令官(中将)
1886年生まれ、愛媛県出身。陸軍中央幼年学校(のちの陸軍士官学校)卒業。1918年中国へ侵
略。その後偽満洲国軍政部最高軍事顧問、南京城内警備司令などを歴任。1945年ソ連赤軍により速捕、1950年7月中国へ引渡。1955年撫順戦犯管理所にて病死。
佐々木到一は在任期間中に、中国への侵略戦争を実行した。国際法の準則と人道主義の原則に違反して、偽満洲国軍事の実権を握り、東北抗日連合軍と平和に暮らす住民を虐殺し、南京大虐殺などの犯罪行為を指揮した。
1936年10月から1937年3月にかけて、佐々木到一は偽満洲国軍政部最高顧問(少将)の身分で東辺道独立大討伐に参加し、指揮官となり、抗日救国軍に致命的な損失を与えた。 1937年12月佐々木到一は、日本軍第16師団歩兵第30旅団旅団団長兼南京地区西部警備司令となり、管轄区内でほしいままに「敗残兵」と平和に暮らす住民を捕え、軍民2万人以上を殺害した。

・熊谷清
日中帰還協会の会員であり、1922年に日本の北海道で生まれた彼は、1943年の日本軍による中国侵攻作戦に参加し、第59師団の軍曹として従軍した。1945年にソ連軍に捕らえられ、1950年7月にソ連政府によって中国へ移送され、1956年に無罪で釈放された。
日本に帰国後、熊谷清は余暇を油絵に捧げた。彼は深い感慨を込めてこう語った。「我々は中国人民を残酷に虐殺したが、中国人民は報復するどころか、人道的な扱いをしてくれ、我々、殺人鬼を新たな人間へと変えてくれた。私は筆を通して、中国人民の人道的な扱いと寛大さを伝えたい」。彼の作品は日本各地を巡回し、高い評価を得た。1987年、彼はこれらの作品を撫順戦犯管理所旧跡陳列館に寄贈した。

戦犯たちは信じられないことに米飯を碁石にして、食事を便所場に捨て、改造への反抗を表した。

・拘留中戦犯の状況 尋問中、囚人の最大の懸念は死刑への恐怖だった。そのため、当初は自白を拒否し、長期間の再教育を経てようやく罪を認めた。彼はこう語っている。「尋問の当初は、自白しても自白しなくても死ぬと思って、自白したくなかった。しかし後に『自白者には寛大な措置』という政策を聞いて、中国政府は私を処刑しないだろうと希望を感じ、自白した」。自白後、彼は学業に熱心になり、天皇制や日本の軍国主義を批判する文書の研究にも積極的に参加した。「息子は南洋で亡くなり、私は中国で重大な犯罪を犯した。これら全ては天皇制のせいだ」と彼は語った。また、天皇にも直接訴えかけた。こうして彼は天皇と自身の犯罪について予備的な理解を得ただけでなく、人道的な処遇に対する考え方も変化させた。

学習規則
〇〇州における犯罪者の早期更生
政治的関係の本質は、主に政治思想、時事問題と政策、そして理性にある。
○○と革命的ヒューマニズムの融合について
これは、同じ資本主義体制でありながら社会主義体制でもあるからだ。
国家間の本質的な違い。資本主義国家。
州の犯罪者に対する基準は、彼らの尊厳を尊重するだけでなく、さらに…
その方法は、彼を健康にし、理屈で説得することだ。
彼は多くの新たな人々が形成されるのを防ぐために過去の行いを悔い改め、そしてこの理由から…
これらの規則はここに制定される。
第1条:人は学ぶ努力をし、自分の欠点を認め、真実を受け入れなければならない。
理性、変化、そして思考の本質。犯罪者の心理を掘り起こし、彼らを逮捕せよ。
新たな道徳的価値観を確立し、より自立した個人へと変容する人々・・
第2条:事実から真理を探求し、理論と実践を融合させるという原則を堅持し、いかなる偏向的または非倫理的な見解にも反対する。したがって、正しい学術的アプローチを確立する。

・杉原一策
かつて傀儡政権である満州国の新京市高等警察局の副局長を務めていた彼は、日本による中国侵略の際、中国人抗日兵士や民間人を残虐に弾圧・虐殺するという重大な犯罪を犯した。「三筆虐殺」だけでも、彼は175人の抗日兵士と民間人を逮捕し、うち70人を処刑、103人を長期の懲役刑に処した。ソ連に収監されていた間、彼は重度のリウマチを患い、拘置所に移送されても症状は改善しなかった。中央委員会の承認を得て、彼は3ヶ月間の温泉療養を受け、容態が改善したため、早期釈放され、健康に帰国した。
・永富博之 山西省聞喜県保安連絡部隊部指導員として、白石村での掃討作戦に従事していた。彼は村人の裴暁丹の口に銃剣を突き刺し、喉を貫き、舌を切り落とし、歯を折った後、石で頭を叩き割った。一方、戦犯の永福弘には、拘置所で4本の義歯を装着した。この人間性と残虐性の衝突は彼の良心を深く苦しめ、「私は自分の罪を徹底的に告白し、新たな人生を始めなければならない」と宣言した。

早くも1952年1月28日には、周恩来総理は最高人民検察署と公安部に戦犯問題を検討し、期限を定めて戦犯処分案を提出するように指示を出した。(『周恩来年譜 1949-1976』、213頁) 1954年春に、中国政府は最高人民検察院東北工作団を設立し、戦犯に対する訊問を開始した。管理所では同時に認罪告発運動を展開した。1956年6月から7月まで、最高人民法院特別軍事法廷は、45名の戦犯に対する裁判を公開で行なった。6月から8月まで、最高人民檢察院は、罪行が軽く悔悟の念をあらわしている1,017名の日本人戦犯を三班に分け、起訴免除を分け言い渡し、寛大にも釈放帰国させた。受刑改造を経て、 すべての戦犯は、1964年3月までに相次いで釈放された。

1956年9月、中国から次々と帰国した元日本人戦犯たちは、東京で「中国帰還者連絡会」(略称「中帰連」)を設立した。中帰連は「侵略戦争反対、世界平和擁護、日中友好推進」をとなえ、積極的に日本帝国主義の中国侵略の罪行暴露を展開し、日中両国人民の平和友好活動を推進し、日本国内で戦争反対、平和擁護を行なう重要な社会団体となった。新世紀になり、中帰連会員の年齢も高くなったため、2002年4月20日に解散したが、中帰連の賛助会員と日本の進歩的な青年は同時に「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」が設立され、「中帰連」の精神を継承、発揚している。

副島進夫妻 1956年に釈放され日本に帰国する前、中国人の刑務官である呉浩然は、副島進にアサガオの種をひとつかみ渡し、「次に中国に来るときは、武器ではなく花を持ってきてほしい。日本に帰ったら、美しい花を植えて幸せな家庭を築いてほしい」と告げた。副島進はこの言葉を50年以上もの間心に留め、自分の庭にアサガオの種を植え、その後、新しく育った種を近所の人々と分け合ってきた。(右写真の文はグーグル翻訳)

右)溥儀の牢獄 満州国という傀儡政権の戦犯、溥儀とその大臣たちが収監されていた独房。ここでは誰も世話をしてくれる人がいなかったため、溥儀はあらゆることを自分でこなさなければならず、靴ひもを結ぶ、靴下を繕う、洗濯をするなど、生活に必要なスキルを徐々に身につけていった。

中国の歴代王朝、イギリスや、ルイ王朝、ニコライの末代王はことごとく、自殺、毒殺、処刑、流亡など不幸な最期を遂げたが、清の溥儀は平穏無事な一生を過ごせたとか。
ーー
中国共産党と中国政府が決定した統一戦線政策と戦犯改造を実施するにあたり、我々は「懲罰と寛容」を組み合わせ、肉体労働改革と思想教育を組み合わせる」政策を堅持しなければならない。これらの政策はここで完全に実施され、当初は恐怖と疑念を抱いていた溥儀を、積極的な学習姿勢へと変え、罪を認め、悔い改め、最終的に新たな人生を歩み始めた。この監獄こそが、世界で奇跡を起こした場所である。中国人民に憎まれた反逆者であった最後の皇帝、溥儀は、世界的に有名な愛国者へと更生し、その後、国と社会に積極的な貢献をした。
溥儀が新たな人生へと歩み出したのは、ここ撫順戦犯管理所からである。
 古今東西、廃除された皇帝の末路は、それぞれの違いはあっても断頭台に送られる運命から逃れることはできなかった。中国封建社会の末代皇帝たる愛新覚羅・ 溥儀のように、人道主義的な改造を経て新しい生活を送れるようになった人物は、 世界を見回しても稀である。

左)溥儀が天津で最も多く接触したのは日本人であった。写真は、溥儀と駐天津日本軍司令官香椎浩平中将(右から3人目)との集合写真。
右)1935年、関東軍は当時陸軍士官学校の教官であった吉岡安直を、いわゆる「宮内官吏」として溥儀の傍らに派遣し、関東軍の上級参謀として溥儀を厳重に監視・統制させた。
ガイドの張超さんの話によると、「溥儀は4人奥さんがいた。3番目の奥さんが20代で戦犯管理所にいっしょに泊まった。4番目の人を終生過ごした」とか。

左)日本侵略者は大量の木材を略奪して大連港から輸出した
中)偽満州国時代の鞍山鉄鉱山
右)アヘン工場

日本の侵略者たちは大量の石炭を略奪した。この写真は撫順露天掘り炭鉱を示しており、ここは傀儡政権である満州国の総石炭生産量の約73%を占めていた。

中)アヘン専売所
右)1950年10月から1954年2月にかけて、朝鮮戦争の勃発に伴い、周恩来首相の指示により、撫順戦犯管理所は北部のハルビンに移転され、溥儀は再び死の恐怖に陥った。写真は、溥儀をはじめとする満州国の戦犯が収監されていたハルビン監獄である。

見学中、中国電視台が取材に来ていたが、あとでニュースになった(4分強)↓。

CCTV「遼寧省の撫順戦犯管理所は、かつて982名の日本戦犯の思想改善を成し遂げ、世界の戦犯管理史上、撫順の奇跡を生み出しました。新国家を打ち立てた中国は、戦後、平和のため多くの努力を注ぎました。撫順戦犯管理所及び陳列館は歴史を明確にし、平和を大切にするため、6月に再公開されました。(声が替わり)撫順戦犯管理所及び陳列館は6月に再開後まもなく、特別な参観者を迎え入れました。当時釈放され帰国した日本戦犯の子女及び日本の青壮年で組織された撫順の奇蹟を受け継ぐ会(関西支部)の一行です。一行は当管理所を訪れ、歴史を学び、戦争を再認識した」そのあと野津さんのインタビュー(←参加者の方より翻訳頂きました)

撫順管理所は終わり、旅行記は別ページへ続く(下のタグ 遼寧省にて)