遼寧省2025.6訪中団4-1、阜新炭鉱万人坑
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こちらは2015年改装の記念館だ。慰霊碑の前に露天掘りの炭鉱が見える。今石炭はあまり取れない。東西4km南北2km。万人坑犠牲者7万人。万人坑の歴史の陳列館と特殊工人(抗日労働者)の暴動の歴史と万人坑(抗暴青工遺骨館)、一般労働者の万人坑(死難鉱工遺骨館)。
最初に、阜新万人坑遺址陳列館へ
中)はじめに 1931年9月18日、日本の侵略者が巡らした陰謀により、中国と海外に衝撃を与えた「九一八事件」(満州事変)が引き起こされ、 東北部の3つの省が武力により占領されてしまい、阜新は日本の侵略者に奪い取られた。阜新の石炭資源を大規模に略奪するため、日本の侵略者は多数の中国人労働者を阜新炭鉱に誘い込み、「人肉採掘」の政策を必死に採用し、2500万トン以上の石炭を略奪した。日々増え続ける鉱山労働者の遺体を埋葬するため、日本の侵略者は、鉱山地域に4つの「満炭墓地」を設置し、炭鉱崩落やガス爆発、疲労、 飢餓、苦痛、病気に苦しんでいた鉱山労働者は抗争で殺されたり、生き埋めにされたりした。遺体を積む草木は生臭く、血が荒れ果てた丘は赤く染まり、残忍な行為には、人々を激怒させたものである。1945年に日本が敗戦して降伏するまでに、 70,000人以上の鉱山労働者が亡くなってしまい、至る所にあるこの「万人坑」 の遺跡は、日本侵略者が中国に対する侵略犯罪の動かぬ証拠である。

かつて南満州鉄道会社があった場所
1906年11月26日、大連に本社を置く南満州鉄道会社が設立された。
南満州鉄道会社(SMR)は、日露戦争後に日本がロシアから継承した長春と旅順間の鉄道および関連事業を管理するために設立した会社である。表向きの使命は、同社が有する権利を管理することであったが、実際には日本のいわゆる「大陸政策」を実行するための機関であった。本社は大連に置かれ、支社は日本の東京にあった。
1915年、南満州鉄道会社(SMR)は、大倉から新丘炭鉱の採掘権を取得し、1931年の奉天事件まで人員を派遣して操業した。その後、日本の支援を受けた傀儡政権である満州国が樹立され、1934年5月に「満州炭鉱会社」が設立された。SMRは、新丘炭鉱の採掘権および関連資産を、有形投資として満州炭鉱会社に譲渡した。

日本人は中国人労働者を拷問した
1925年6月、大新公司は表向きは合弁会社であったが、その経営は完全に日本の支配下にあった。最近、同社は赤字を出し、日本人経営者は密かに裁判所を設置し、暗い地下室で中国人労働者を拷問して死に至らしめ、窃盗の罪をでっち上げた。
中)満州国阜新炭鉱会社
1932年3月、傀儡国家である満州国が建国された。1934年5月、中国東北部の炭鉱を管理・運営する日本の傀儡政権下の組織である満州国炭鉱会社(以下「満州国炭鉱」)が設立された。1936年10月1日、満州国炭鉱は阜新炭鉱の管理を統一するため阜新に鉱業事務所を設立した。1939年までに、阜新鉱業事務所は8つの炭鉱ステーションを管理し、44の傾斜坑と3つの露天掘り炭鉱が稼働しており、さらに2つの傾斜坑と2つの露天掘り炭鉱が建設中で、満州国炭鉱システムで最大の炭鉱となった。1940年、阜新鉱業事務所は年間337万トンの石炭を生産し、満州国炭鉱の総生産量の34%を占めた。
1941年12月の太平洋戦争勃発により、石炭需要は急増した。満州国炭鉱の危機を緩和し、戦時需要を満たすために石炭生産量を増やすため、日本の傀儡政権は満州国阜新炭鉱を満州国炭鉱から分離し、準特別法人格を有する独立企業、すなわち満州国阜新炭鉱会社として再編することを決定した。1945年8月15日、日本が降伏し、満州国阜新炭鉱会社は解散した。
左)石炭資源の略奪
日本の侵略者たちは阜新の石炭資源を略奪した。彼らは新丘、城南、高徳、孫家湾、太平、武隆、平安、八道豪の8つの炭鉱を設立した。また、労働者を搾取するために封建的な監督制度を導入した。このような高圧的な支配の下、多くの労働者が坑内事故、迫害、飢餓、負傷、疫病などで命を落とした。満炭理事長の河本大作、阜新炭田を「視察」
1935年7月、満炭炭鉱の取締役会長である河本大作、取締役の竹内徳三郎、撫順炭鉱の取締役である長久保孚は、孫家湾炭田の詳細な調査を行うため、阜陽へ飛んだ。調査の結果、新丘炭の品質が劣悪であったため、孫家湾炭田を優先的に開発することが決定された。
阜新鉱業所旧址
1936年10月1日、「満州炭鉱阜新鉱業研究所」が設立され、大新社と大興社を含む13の鉱区と、「東北鉱業局」管轄下の20の鉱区を管轄した。研究所の臨時事務所は阜新県に置かれ、孫家湾炭鉱、新丘開発事務所、武龍、太平、高徳の3つの調査チームが派遣された。探査と採炭作業を開始すると同時に、炭田全体の総合調査が開始された。
中)鉱山犬訓練センター
労働者を抑圧するため、日本軍は1935年から孫家湾露天堤防の南稜線にオオカミ犬訓練キャンプを建設した。写真は当時の訓練風景である。
右)海州市労働者補導所
いわゆる「労働者補導所」は、実際には日本の憲兵隊に付属する特別刑務所であり、特に「思想囚」や「国家囚」を収容するために設置されていた。敷地は電気柵とサーチライトで囲まれ、四隅には監視塔が設けられていた。敷地の中央には水で満たされた堀があり、その上に跳ね橋が架けられていた。正門から出るには、この跳ね橋を下ろす必要があった。敵は厳重に警備しており、脱出は極めて困難だった。
神社
阜新日本神社(かつては現在の阜新歌劇院敷地の北側に位置していた)は、1937年(康徳帝の傀儡政権4年)に当時の日本人団体「阜新仏教会」によって建立された。阜新にあるこの「靖国神社」は、日本が中国侵略時に犯した犯罪の紛れもない証拠である。
左)熱河省阜新県南西部の大規模鉱山地域と小規模鉱山地域の関係を示す地図
新義鉄道線が石炭輸送のために開通した。
新義線鉄道は1935年に着工され、1937年10月1日に正式に開業した。
中)残忍な搾取に苦しむ鉱山労働者たちの悲劇的な運命
石炭資源を略奪するため、日本軍は鉱山労働者を容赦なく搾取し、抑圧的な政策を駆使して、彼らを無差別に殴打し、罵倒し、殺害した。劣悪な衛生状態と蔓延する疫病も相まって、鉱山労働者は日々命を落とした。彼らはまた、鉱山労働者の命を顧みない「人肉採掘」政策を実施し、落盤、浸水、ガス爆発を引き起こし、数え切れないほどの命を奪った。
右)落盤事故とは、地下採掘中に鉱石が上部から崩落する鉱山事故のことである。阜新が日本占領下にあった時代には、落盤事故が頻繁に発生した。当時の支配者たちは労働者の命を軽視し、鉱山の入り口を封鎖して保護するなどの手段にまで訴えた。これは、日本軍による強制採掘の実態を示す最たる例と言えるだろう。
左)鉱山労働者の大きな家
中)把頭を動かして仕事に取り組む
彼らは労働者たちに炭鉱に降りて石炭を採掘することを強制した。労働者たちが少しでも怠けると、激しく殴打され、板で叩かれたり、冷水を喉に流し込まれたりといった拷問を受けることもあった。
右)死者の倉庫
1936年から1945年にかけて、日本は阜新の石炭資源を略奪し、多数の労働者が命を落とした。遺体の集中埋葬を容易にするため、遺体は太平炭鉱の大きな建物に一時的に保管された。一定数が集まると、遺体は処分され埋葬された。この場所は「太平死体倉庫」として知られていた。
左)オオカミ犬小屋の跡
労働者を抑圧するため、1935年から日本軍は孫家湾の野外尾根に猟犬用の囲い場を建設し、中国人労働者に危害を加える目的で猟犬を訓練した。これは労働者迫害のための拷問の一形態となった。
中)出典:[日本]阜新炭鉱株式会社 労働統計月報 解雇および異動に関する調査票は、採掘場の内外を問わず使用しないでください。1943年8月(偽康徳時代10年)には、一般労働者の死亡者数が464人と明確に記録されており、このことから年間死亡者総数は5,500人を超えると推測される。月ごとの人員数に基づくと、死亡率は15.3%である。そのうち、鉱山で働く正規労働者の死亡者数は4,524人と推定され、死亡率は29.84%にも達する。これは「未報告」の死亡者、つまり大幅に人数が減らされた死亡者を含まない数字である。これに対し、毎日地下で厳重な監視下に置かれていた特別労働者の死亡率はさらに高かった。
左)満炭墓地 -万人坑
満炭墓地 、別名「万人坑」は、日本軍侵略者が任務中に死亡した鉱夫を埋葬した墓地である。新丘興龍溝、城南米家屋堡、孫家湾南山、武龍南溝の4か所に点在し、石炭を人命よりも優先した日本軍侵略者による残虐な鉱山労働の実態を物語っている。
埋葬穴
危険な労働環境のため、毎日多くの労働者が命を落としていた。死亡者の数が一定数に達すると、まだ生命の兆候は残っているものの、労働能力や労働価値を失った労働者は生きたまま処分された。死亡者数の増加に伴い、労働者を埋葬する墓地も拡大していった。
骨のホール
多数の労働者が亡くなった後、山中に散乱していた無残な骨が集められ、積み上げられて「百骨殿」が形成された。
日本帝国主義によって開始された侵略戦争は、資源の略奪だけでなく、罪のない人々の命を奪う虐殺でもあり、毎日多くの労働者が命を落とした。
中)万人坑遺骨
1939年、日本軍の侵略により石炭が略奪され、1日に数万トンもの石炭が採掘されるようになったため、労働者の死傷者数が劇的に増加した。既存の埋葬穴ではもはや大量の死者を収容しきれなくなったため、日本軍は苦力に孫家湾南部の丘陵地帯に大きな穴を掘らせ、集団埋葬を行った。そこはたちまち数万人が埋葬される集団墓地となった。
右)遺骨
左)集団墓地に埋葬された遺体 中)トロッコ
中)「石門臨時捕虜収容所の概要」(以下「概要」という、石門=石家庄)は、中国侵略時の日本人捕虜収容所に関する要約文書であり、全13ページからなる。
この文書は極めて貴重なものです。約3000文字が縦書きで書かれており、各ページは25.8×18cmで、蝋紙に日本語で印刷されています。表紙の右上隅には「昭和18年11月15日」(1943年11月15日)という日付が謄写版で印刷され、中央には筆で「概要」と書かれています。左下隅には「石門臨時捕虜収容所」と書かれた青い印鑑が押されています。専門家は、この文書が中国で発見された同種の文書としては初めてだと考えています。これは「模範刑務所」というイメージを美化する官僚的な文書ではありますが、「精神と身体の教育」に関する内容や、この収容所で捕虜労働者の75%が病気になり、11%が死亡したという事実から、中国侵攻時の日本軍による捕虜労働者への残虐で肉体的な虐待の実態が明らかになっています。この文書は、日本軍が中国人捕虜や戦争労働者の存在を否定したという嘘を暴いており、研究価値が非常に高い。
石門臨時捕虜収容所は、主にこの部隊に捕らえられた捕虜や、再教育が必要な降伏した山賊を収容、訓練、思想教育し、若者を労働者に変えることを目的としていた。正式名称は石門労働訓練センターであった。収容所では、拘束された捕虜に対していわゆる「精神と肉体の教育」が行われ、主な目的は以下のとおりであった。1) 日本の軍国主義の促進、2) 日本の中国侵略戦争の美化、3) 中国共産党の中傷と抗日武装勢力の鎮圧の動員、4) 汪兆銘傀儡政権の「平和運動」の称賛、5) 捕虜の日本への抵抗意志を弱め、中国を精神的に滅ぼすための洗脳。収容所の捕虜労働者は「現在、1日2食しか食べられず、食事も…」
彼らは仕事に出かける正午に一度だけ追加の食事を受け取っただけだった。「概要」にはさらに、「このシェルターの開設以来、患者数は毎月変動しており、居住者の中から新たな患者が発生する確率は約…」と記載されていた。
収容所に新たに到着した人々の75%のうち、半数以上が健康状態が悪く、病弱だった。死亡率は全体のかなりの割合を占めていた。食料や衣服の不足に加え、多くの捕虜労働者が病気になり死亡した理由は、過酷な労働、拷問、そして蔓延する疫病などであった。
右)地下政党の連絡拠点――パンケーキ屋
1943年、中国共産党晋茶集支部の東北工作委員会は、共産党員の于宝奇と孫玉明を阜新新丘炭鉱区に派遣し、地下での作業を行わせた。連絡を円滑にするため、彼らは于宝蓮の妻を装ってパンケーキ店を開いた。
左)人民ブリーフケース、拳銃、手投げ弾、義勇軍靴
中)捕虜となった抗日武装兵の護送
1941年初頭、日本軍は戦場で捕虜となった中国兵や将校、基地地域で逮捕された反日活動家や民衆、そして地元の憲兵隊や警察署に拘束された「犯罪容疑者」を、日本軍が特別に設置した「訓練」所」で強制的に訓練した。その後、彼らはグループに分けられて中国東北部に送られ、日本の関東軍の軍事工兵プロジェクトや、日本の傀儡政権が労働者として指定した重要産業に配属された。
彼らのうち何人かは富陽特別労働者グループに護送された。
右)特殊党支部
1936年から1945年までの日本軍による阜新占領中、炭鉱での強制労働を強いられた阜新鉱業学院の「特別労働者」たちは、日本軍占領下の煙立ち込める戦場から、敵の厳しい支配下にある後方地域へと移動した。共産党員たちは、どこへ行っても党の原則を固く心に留め、率先して党組織を設立し、集団の知恵と力を結集して特別労働者たちを率いて敵との闘争に臨んだ。こうした特別労働者たちの間に、共産党の秘密の特別支部が最初に設立されたのは、敵の強制収容所においてであった。
密かに政治保証グループを設立した
1942年5月、抗日軍事政治大学第二分校第三連隊の宣伝部長であった李振軍は、李継遠、李洪年とともに河北省安平で逮捕された。拘置所では、中国共産党の地下組織と協力して政情安定維持に努めた。
政治保証グループの任務
(1)揺るぎない忠誠心をもって最後まで敵と粘り強く戦うための人員を組織する。
(2)敵の全ての動きと捕虜の状況を理解し把握すること。
(3)国民に国家の統合について継続的に教育し、階級意識を喚起する。
6月の特別支部の仕事
(1)共産主義思想で党員を教育し、大衆を団結させ、誠実さを保ち、敵の尋問に対処する。
(2)大衆と繋がり、彼らに宣伝する。
敵を明らかにします:
[3] 刑務所から出て働き、道を覚え、脱獄の準備をするように努める。
(4)自分の健康に気を配り、他の患者さんにも気を配りましょう。
5友党小組任務
この旅団は労働者を動員して工具を破壊し、士気を低下させ、日本の傀儡政権の大規模な撤退計画を推進する一方で、同時に…
10月の特別支部の仕事
大衆を教育する
団結して敵に立ち向かう
*体力をつける
左)北部辺境支部の任務は、党内外の人材の思想を正し、腐敗と堕落に反対し、否定的な感情に反対し、闘志を強化し、敵の生産を妨害し、電信線を切断し、あらゆる手段を用いて敵と戦うことであった。
5友党小組 彼らは労働者を組織化・動員し、工具の破壊工作や非暴力抵抗運動を行い、日本の傀儡政権による大規模な石炭生産計画を阻止するとともに、労働者たちに脱出を促した。西北支部は会員や特別活動家を率いて、日本の傀儡政権に対する様々な形の闘争を展開し、新丘下菜園子蜂起後に逮捕された56人の仲間の囚人を救出することに成功した。
残忍な奴隷化と日本軍の追跡にもかかわらず、鉱山労働者たちは揺るぎない決意を貫き、大衆の結束と戦争の勝利への確信を胸に、闘争を続けた。彼らはストライキを起こし、裏切り者を粛清し、日本軍の侵略者を殺害し、再び対日戦の最前線に立つための運動を開始した。
左)朱濤(本名:朱瑞祥)は、1913年9月25日、河北省黎県に生まれた。1931年に中国共産党に入党し、1938年に第八路軍に入隊した。1942年に捕虜となり、阜新炭鉱に労働者として送られた。1955年9月に大佐に昇進し、1960年には上級大佐に昇格した。三等独立自由勲章と二等解放勲章を授与された。2014年、101歳で広州にて死去した。
李振軍は1920年6月、湖南省鳳凰県に生まれた。1937年2月、中国共産党に入党。1942年5月に捕虜となり、阜新炭鉱に労働者として送られた。1955年6月、独立自由勲章三等と解放勲章二等を授与された。1960年3月、大佐に昇進。1984年9月、武装警察部隊の政治委員、公安部党指導部の一員となった。1988年4月、中国人民政治協商会議第7期常務委員に選出された。2008年3月9日、北京にて88歳で死去。二人は生産を妨害した。
中)菜園騒動 1942年9月2日、中国共産党員の李振軍、朱濤らが組織した特別労働者蜂起「菜園蜂起」が勃発した。劉桂と崔素源がそれぞれ指揮官と副指揮官を務めた。突撃隊長の厳瑞と王志光は67人を率いて脱出したが、戴旭樹、韓玉波ら3人が死亡、45人が重傷を負い、200人以上が逮捕・投獄された(海州労働者指導センター)。劉桂、崔素源、白如意ら監督官級以上の者は日本軍憲兵隊に連行され尋問を受け、後に錦州刑務所に移送された。
右)辛志屏(1904-1941)、別名辛培遠は、大連市錦州区龍王廟村の農家に生まれた。1925年に中国共産主義青年団に入団し、1926年7月7日に中国共産党員となった。遼寧省における初期労働運動の傑出した代表者の一人であり、全国的な日中侵略との闘争中、長年にわたり労働運動に従事し、秘密戦線で敵と巧みかつ勇敢に戦った。1939年9月、辛志屏は阜新に到着し、阜新炭鉱製造工場の組立工グループの主任となった。彼は優れた技術と同僚への親切さから、皆に大変慕われていた。彼はしばしば抗日連合軍の闘争や他地域の労働者によるストライキについて語り、さりげなく革命思想を植え付け、彼らの民族意識と抵抗精神を鼓舞した。作業中、彼はしばしば「のんびり」と時間を稼ぎ、あらゆる機会を利用して機器をいじり、故障させたり、プロジェクトを遅らせたりした。ある時、彼は労働者を殴打した日本人監督者を力強く説得し、過失を認めさせ、殴られた労働者を病院に送って治療を受けさせたこともあった。1941年7月1日、辛志屏は裏切り行為により阜新で日本軍憲兵に逮捕された。敵は彼に様々な残酷な拷問を加えたが、彼は屈しなかった。その後、敵は辛志平を密かに侵攻してきた日本軍第731部隊に送り込み、細菌兵器の人体実験の被験者として利用した。そして辛志屏は、わずか36歳という若さで、敵の細菌研究所で英雄的な最期を遂げた。
左)ソ連赤軍は中国東北部に侵攻した。
1945年8月8日、ソ連政府はモスクワ駐在の日本大使に対し、ヤルタ会談の精神に則り、連合国に対する義務を果たすため、翌日から日本との戦争状態に突入することを宣言した。8月9日、ソ連軍は中国東北部に派遣された。
中)日本軍は我々の第八路軍に降伏した。
右)1949.10.1.
阜新市人民政府設立式典で撮影された写真。
阜新市で各界の人々が参加して開催された国慶節祝賀集会の会場
阜新市では、あらゆる階層の人々が、中国人民政治協商会議、中央人民政府、そして世界平和会議の設立を祝った。
おわりに
前事を忘れざるは後事の師なり。阜新で日本の侵略者が犯した甚だ大きな罪は、立ち後れていると侵略され、後進性から発展することで、私たちは強くなれる。
歴史は最良の教科書であり、最良の冷静な判断力の源である。私たちは常に歴史を心に留め、過去を振り返り、革命の殉教者を偲び、平和を大切にし、未来に警鐘を鳴らさなければならない。中国は揺るぎなく平和的発展の道を歩み、常に世界平和の建設者であり続ける。習近平新時代の中国の特色ある社会主義思想の指導の下、私たちは団結し、当初の志を堅持し、新時代における使命を心に留め、「四つの意識」「四つの信条」「二つの信念」を実践し、中華民族の偉大な復興という中国の夢の実現に力を注いでいかなければならない。
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