「戦争」というマスコミ用語にだまされてはならない
本多勝一集18ジャーナリストP98~104(朝日新聞社)より以下引用。
戦争に反対する。戦争が悪の根源である。戦争をなくそう。二度と戦争にならないように。息子を戦争に狩りだされまい……。
こういった表現が、いまの日本の良心的市民のあいだで、何の疑間もなく使われています。新聞の投書欄などでもこの種の表現が一般的です。けれども、実はこうした表現には重大なごまかしがあることをここで指摘したいと思います。こうしたごまかしの表現を、良心的市民が普通に使うようになってしまった主要な原因は、たぶんNHKをはじめとする大放送や大新聞による教育の〞成果〞に求めることができましょう。それではまず、その大新聞の一つから最近の社会面のトップ記事を、実例として以下に全文引用いたします。
失ったもの。本名と両親と、ふるさと、そして中国語。
得たもの。日本人の妻と子と日本語、そして平和の尊さ。
中国人、光俊明さん、三十六歳。彼の人生ドラマの演出者は、人間が生み出した最大の怪物、戦争である。この人生ドラマが、本物のドラマになる。東宝が、岡本喜八監督を起用して、近く映画化することが決った。
七歳の捕虜
今は、神戸の貢易商社員として平凡な生活を続ける光さんは、こういう。「平々凡々な生活の方がどんなにいいか。単なる戦争ドラマには、してもらいたくないなあ」
昭和十八年六月、日本軍の第三十七(光)師団は、中国・河南省大爺廟で、約五百人の中国兵を捕虜にした。その中に、自分の名前もよくわからない、七歳の少年がいた。光少年である。父母と別れ、戦乱の中で学校教育を受けるため、中国軍の将校に預けられていた。
「日本軍のおそろしさを、いっぱい聞かされ、また実際に見てきているので、(中略)日本軍の中にいっしょにいるのが不安でならなかったのです」(ニトリア書房刊『七歳の捕虞』から)
光師団は九州出身者で編成されていた。勇猛ではあったが、素朴な人情にもあふれていた。
「七つか。オレの子どもと、あまり変らないなあ」兵隊たちから、オニのようにこわがられている下士官たちが、とりわけ少年を可愛がった。中国人がつけたという俊明の名をとって「トシ坊」の愛称がつけられた。慰問品のおもちゃをもらったり、日本語を教えてもらったり。いじっぱりなトシ坊の警戒心は、日本兵たちとの交流の中で徐々に和らいでゆく。
南下軍
日本軍のマスコットになったトシ坊はやがて、南下する部隊と行動を共にする。戦場の兵士たちにとって、父母の愛に飢えた一人ぼっちの少年の存在は、人間らしさ、を取戻す心の糧でもあったのだろう。「日本軍を頼って生きてゆくよりほかしかたがないと考えたのです。彼らも果てしなく続いている戦争とともに歩いて行く兵隊でしたから、安心できる頼り場所とはいえないのですが…」(同書) 南京、武邑、桂林、ハノイ…。ある時は米軍機に襲われながら、ある時は、病魔にとりつかれながら行軍と駐屯を繰返した。サイゴンで終戦を迎え、パンコク郊外の収容所で英軍の捕虜としての生活を終えるまで、丸三年。七千キロの長い旅は終る。
旧兵士
引揚げが決った時、「トシ坊」は十歳になっていた。連合国への引渡しを泣いてこばんだ。迎えにきた中国兵をまいて、ジャングルの中に逃げこんだりもする。加地正隆陸軍医が養父を買って出た。師団司令部の再三の交渉で、英軍当局もついに「トシ坊」の日本渡航を許可する。そして引揚げ-。
熊本市の加地さんの実家に引きとられ、師団の別名「光」がそのままトシ坊の姓になった。彼の戦後は穏やかな日々の積重ねであった。一家や周辺の人たちの愛に包まれて、小、中、高校と進学した。昭和三十四年には、地元の熊本帝大を卒業する。
昭和四十四年、いまは消防署に勤める辻伍長の世話で、吉田範子さん(二六)と結婚した。阿久根曹長(鹿児島)、石川上等兵(大分)、宮浦上等兵(宮崎)らもかけつけた。新婚旅行は九州南部へ。旧兵士たちが、車で次々とリレーした。一円もかからないハネムーンであった。“その代り、二人だけの時間なんて、全然なかっったです」
映画化を決めた東宝映画のプロデューサー、馬場和夫さんはいう。「中途半端に扱うと、中国ブームに便乗しただけの上すべりなものになる。あんな侵略戦争を起し、残虐行為を働いたのも人間だし、こういうドラマを生むのも人間です。人間とはいったい何か、深く考えさせるような映画にしたいと思う」
光さんに昨年、長女の美也子ちゃんが生れた。残る夢は、もう一度、中国の土を踏んで、父母に再会することである。「父は兵隊にとられたからとっくの昔に死んでるかもしれませんねえ。母は、きっと生きてます。顔もだいたい覚えてるような気がするんです」
(『朝日新聞」“一九七二年一月一五日)
右のような記事について、一般的日本人は、あまり違和感を覚えなくなってしまいました。しかし、これを「全くふざけた記事だ」と怒り、東宝に対して、このような視点での映画製作に抗議している人々もあるのです。
その声をきいてみましょう。以下は発表されなかった私の記事として読んで下さい (まえがき省酪)。
中国帰還者連絡会(正統)事務局長の塚越正男さん(溶接加工)は、まず「すべては〝戦争〞が悪かった」とする立場を、侵略者の考え方として批判する。-「なにもかも『戦争』のせいにするんだったら‥ベトナムに侵略した米軍に対して抵抗する解放勢力の戦いも、侵略軍の戦争と同列に『悪い』ことになってしまうじゃありませんか。悪いのはあくまで『侵略』であり、『帝国主義』『軍国主義』であって、その結果としての『戦争』という現象を悪いというのは、本質をはぐらかすケンカ両成敗的な侵略者側の発想ですよ」と指摘する。
そして、光俊明さんのような子供が日本軍について歩いた例は、「皇軍による恐るべき残酷な作戦としていくらでもあったことだ」と、塚越さんのほか同会の鵜野晋太郎さん(新日本通商)や小林栄治さん(機械振興協会技術研究所)らは、自分たちの作戦体験から次のように語った。
-中国にいた日本軍が、いわゆる「警備態勢」から「作戦」なり「討伐」なりに移るときは、まず駐屯地付近の村のひとつを急襲し、農民を強制連行してくる。行動開始は夜が多い。目的地をひそかに急襲するため、とくに豪雨の夜などが好まれる。このとき弾薬運びや糧秣運びに使われるのが、狩り集めておいた農民だ。猛烈な「皇軍」の「行軍」に、重荷をかついでついていかされる農民たち。兵隊は訓練でなれた〝プロ〃だが、農民はこんな行軍など〝アマ〞だし、重い荷をかついでいる。一夜でその顔には死相が現れた。
そのような村人たちの小さな子供が、親から離れじとついてくる。作戦のどさくさが終わるころ、馬よりひどく扱われた死相の人々は、まず半分以上が死んだり殺されたりしている。孤児になった幼児が残る。
作戦地へ往復する途中の村々が、また悲惨だ。豪雨でサルマタまでぬれた兵隊は、十分か十五分の小休止があると、近くの農家へ手当たり次第にとびこむ。農民を外へ追い出すと、そこいらにあるイスなどの家具を集めて火をつける。ぐしょぬれの服は、猛火でたちまち乾く。上官は「おいおい、手りゅう弾が火で爆発せんよう気をつけろよ」などといっている。歩きだすとまたぐしょぬれ。小休止でまた農家の家具。貧乏な農民にとっては、宝のように大切な家具が、次々とタキモノにされる。
こうして襲った目的地が「敵性地区」*であれば、村人はさらわれて、行くときの有事で死んだ村人や馬のかわりに、帰途の荷をかつがせられる。機関銃など四人でもブラフラするはど重い。ここでまた村の子供らは、連行される親にしがみつく。親たちは、生きては帰れないだろうことを知っているから、わが子に「村に残って待ちなさい」と叱るが、子供らは手をかたくつかんで離さない。そのまま拠点へとついてゆく。
帰途の「行軍」は往路よりひどい。敵に退路で待ちぷせなどされないようにと、さらった村人に一番の近道を案内させる。夜道にゲリラがかくれられないようにと、途中の民家に片端から放火して、周囲をあかあかと照らす。「どうお家を燃さないで下さい、と手をあわせんばかりに拝みながら、そのかわりにとワラの束なんかを持ってくる農民たちの必死の顔が、今でもまぶたにうかびますよ。そんなものはしかし一切無視して、どんどん放火しましたが」と鵜野さんはみずからの体験を涙ぐみながら語る。
-こうして日本軍の駐屯地まで帰ると、馬がわりに連行してきた村人は、たいてい「秘密保持のため」として殺された。また孤児ができる。これは兵隊たちが個人のドレイのように連れて歩いた。ハンゴウなどを持たせたり、水くみなど雑用に使ったり、ペットみたいな感覚のマスコットにしたり。だから「太郎」「花子」ときには「ポチ」などという名がつけられた。
「中国に行った日本人戦争経験者なら、そんなこと常識ですよ。涙もかればてて、おそろしい日本兵の列の間を歩いている子供の姿は、今思うと泣けてきますよ。あの〝トシ坊〞などは、生き長らえただけ幸いだった珍しい例でしょう」と、塚越さんは語り、安易な姿勢の映画化に強い疑問を抱くのである。
以上の〝記事〞を読んだ上で、冒頭にあげた実例の記事を考えてみましょう。たとえば「彼の人生ドラマの演出者は、人間が生み出した最大の怪物、戦争である」というような文章。果たして、そうでしょうか。
いま私たちの目前で行われているベトナム戦争を例とします。ベトナムに五〇万の大軍を、はるばる太平洋を越えて送りこんだアメリカ合州国政府。タイや沖縄やグアムの基地、それに第七艦隊のたくさんの空母から、地球はじまって以来の大量の爆弾を、せまいベトナムに連日注ぎこんでいる合州国政府。これに対して、ひたすら自国民の解放勢力のみで、また、ひたすら「防衛」や「抵抗」の範囲のみで、延々と戦いつづげるベトナム。かつて一度たりとも、ベトナム側がアメリカ合州国を攻撃したことのなかったこの戦争。これはいったい何でしょうか。ベトナム人が毎日無差別虐殺をされているこの現象の「ドラマの演出者は、人間が生み出した最大の怪物、戦争である」のでしょうか。
べつにむずかしい問題ではないと思うのです。やけくそ気味の右翼文化人は別として、この「ドラマ」の最大の原因は、合州国政府が太平洋をはるばる越えて、ベトナム侵略してきたことにある点は、もはや一般的日本人の常識に定着しています。強盗に押し入ったのは、合州国政府の側であって、ベトナムが合州国に強盗に出かけたのではない。ベトナムが強盗された側であることは疑問の余地があ。ません。そうであれば、その強盗と、された側との問で行われている格闘をみて「悪いのは格闘だ。ケンカが悪いのだ」と解説する馬鹿さかげんもまた、疑問の余地がありません。悪いのは、「格闘」自体ではない。強盗に押し入った行為が悪いのであり、強盗自身が悪いのです。強盗の側が一方的に悪い。強盗にはいられた側の抵抗は、一〇〇パーセント正しい。
では「悪いのは敢争だ」とする思考法は、どういう結果をもたらすか。これは「悪いのは格闘だ。ケンカが悪いのだ」という馬鹿さかげんと全く同じことになります。ます。すなわち、悪いのはアメリカ合州国政府でもなく、帝国主義でもなく、侵略でもない。「戦争」が悪いのだ。「人間が生み出した最大の怪物、戦争」にこそ、悪の根源があるのだ。だから、悪の根源は、憲でもなく、帝国主義でもなく、軍国主義でもなく、アメリカ合州国政府でもない。だから、合州国政府代表のニクソンは、ホー=チ=ミンやファン=バン=ドンと同じていどに悪く、従って同じていどに正しい。「戦争」さえよせばいいのだ。侵略はよさなくてもいいし、帝国主義や軍国主義もよさなくていい。従ってまた、ニクソンがモスクワで「ターニャ物語」を放送することも正しい。(余談ですが、戦争は「人間が生みだし最大の怪物」ではありません。昆虫界では、アリの社会が猛烈な残酷戦争をやります。)
もはやこれ以上の説明は不要かと存じます。悪の根源を、侵略や、侵略の背景としての軍国主義や帝国主義に求めずに、「戦争」に求めるやりかたは、ニクソンをたいへん喜ばせることになる。大放送も大新聞も、今後このようなやりかたを続けてゆくでしょうが、私たちはこうした教育にうっかり乗せられないようにしたいものです。そのためには、侵略された側がどう考えるかといった視点を、常に持ちつづける努力を忘れないことだと思います。本書『戦争の不条理』は「戦争」を扱っていますから、ここに編集された各文章も、こうした視点をいつも投影させながら読めば、それが侵略する側の論理か、される側の論理かを見破るための、ひとつの指標となるかもしれません。
悪の根源は、戦争ではありません。侵略であり、それをもたらす帝国主義社会体制の側にあります。帝国主義は、どうやら近頃では資本主義国だけにあるものではないようですが。
(三省堂「人間の発見シリーズ」第三巻『戦争の不条理』巻頭文から=一九七二年春・記)
ーー(以上、引用終わり)
安倍首相が70年談話で「侵略」の言葉を入れるかが話題になっているが、なぜ韓国、中国が注目するのか改めて理解した。


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