続 棄てられた「皇軍」兵士、週刊金曜日1995.7.7号

2025年9月15日

伊藤孝司 週刊金曜日1995.7.7 第81号P23-28より引用。
朝鮮人軍人・軍属たちと植民地支配 
P24「同じ部隊の三人が、釜で煮た肉をうまそうに食べていました。彼らが『イノシシだ』と言って私にも勧めるので、ひもじさのあまり飛びかかるようにして肉を手にしました。かじりつこうとしだ瞬間、草むらの中の黒い首と足が見えたのです」。
 「陸軍志願兵」としてニューギニアに送られた張炳黙さん(七三歳)が食べようとしたのは、日本兵によって殺された先住民族の子供だった。熱帯原生林の中で、日本兵たちは飢えと病によって次々と死んでいった。張さんのいた中隊三五〇人の中で、生き残ったのは張さんと一人の日本人だけだった。
P26丁貴南(チョン・ギナム)
面事務所に勤めて日本式の米作りを村人たちに指導していたのですが、上司である面長から「俘虜監視員」に行くように話がありました。釜山で受けた訓練の際、そこで食べたのは、自分の生まれた年に収穫した虫だらけの米でした。タイの「俘虜収容所」での私の仕事は、連絡や歩哨・将校当番などです。「俘虜監視員」にはいつまでも昇給がないので、待遇改善を求めてストライキを行ないました。そのため仲間たちは、7年から無期の刑を受けたのです。3000人の捕虜がいる「ワンラン分遣所」でコレラが発生しました。そのため、下痢をしている捕虜500人を、ガソリンをかけて生きたまま焼いてしまいました。そのため、戦後の戦犯裁判で分遣所長は死刑になっています。1944年の末頃、「日本が負けたら、反撃を恐れた日本兵に朝鮮人は殺される」という噂が流れました。私たちは日本兵の動きをさぐりながら、毎日を戦々恐々として8・15を迎えたのです。(面:韓国の行政区分のひとつ)
 元「日本兵」たちの戦後
 だが、植民地支配の残滓を徹底的に払拭しようとしていた社会において、自らの意思に反して志願させられたにせよ、日本軍の軍人・軍属だったことは隠すべき過去だった。私が探し出して取材できた韓国・朝鮮人元「日本兵」六三人のうちの約三分の二が、補償要求の裁判原告か運動団体の会員だったように、今でも彼らにとって積極的に語るような体験ではない。
P27張鎮秀(チャン・チンス)「赤紙」が来て、1941年9月10日に「海軍作業団」としてトラック諸島の夏島に送られました。他の秋島・冬島・七曜島を合わせると朝鮮人は約3万人もいたのです。ここで飛行場や道路の建設・防空壕掘り)・採石場の仕事をしました。特に採石場は暑くて「死の作業場」と呼ばれるほど辛かったのです。米軍空爆後の油タンク消火作業は危険で、1943年6月には、この作業をしていた60人のうちの27人が死にました。日本兵は、栄養失調状態の7人の朝鮮人青年を十字架に縛りつけ、軍刀の試し斬りをしたことがあります。「うまく斬れた」と自慢し合っていました。海軍野戦病裏での蛮行でした。私たちは、その死体処理をさせられ、6人は水葬にして1人は解剖用にと病院の冷蔵庫に入れました。その1週間後、さらに3人が引っ張り出され、銃剣術訓練の的になったのです。「日本は神の国だ」と聞かされていたのに、こんなことは鬼でも許さないと私たちは嘆きました。
 日本にとっての補償
P28また、政府は日本軍によって性奴隷にされた女性たち(「従軍慰安婦」)を対象とした「女性のためのアジア平和友好基金」の募金活動を開始しようとしている。国民から集めた金を、政府が補償の代わりとして被害者に渡すというのだ。政府だけでなく、日本の国民・企業・社会団体なども、被害者たちに謝罪し、償いをする必要はある。しかし、それを政府と同じ土俵の上で行なうことは、国家の責任をあいまいにするものでしかない。
 外務省、厚生省などの官僚たちは、被害者個人には絶対に補償をしないという政策を守ることに固執している。また、歴史的事実をねじ曲げてでも植民地支配と侵略戦争を正当化しようとする閣僚たちがいる。アジア各国から起きている「国会決議」や「基金」 への批判は、このような日本に対する不信と警戒心なのだ。
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いとう たかし一九五二年長野県生まれ。フォトジャーナリスト。著書に『原爆棄民』(ほるぷ出版)、『破られた沈黙』(風媒杜)など『棄てられた皇軍ー朝鮮・台湾の軍人・軍属たち』(影書房)と『日本人花嫁の戦後ー韓国・慶州ナザレ国からの証言』(LYU工房)
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