【赤十字の記憶 61年目の夏に】

2025年9月19日

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日赤和歌山490救護班【上】
2006年08月14日
弥陀三尊像に祈りを捧げる道北さん(左)、辻さん(中)、平井さん(右)=8月6日、和歌山市堀止西2丁目で
 ――ビルマに散った15人―― 前線に孤立、徒歩で逃避行
 強い日差しが照りつけていた。8月6日午前10時すぎ。年配の女性3人が、目を閉じて読経した。
 和歌山市堀止西2丁目、忠霊塔の横。木立の陰に、太平洋戦争のビルマ(現ミャンマー)戦線の死者を悼む弥陀(みだ)三尊像がひっそりと立つ。3人はペットボトルの水を三尊像にかけた。「水飲みたい、水飲みたい、ゆうてたなあ」
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 3人は辻房子さん(86)。平井越子さん(86)。道北澄子さん(79)。赤十字の旗のもと、従軍看護婦として戦火のビルマに派遣された。「日赤和歌山490救護班」。23人で編成した490班は、15人の命がビルマで消えた。
 赤十字社の看護婦は本来、ジュネーブ条約で敵の攻撃から保護されていた。それなのに490班は戦闘に巻き込まれて壊滅。ありえない犠牲だった。生き抜いた3人の記憶をたどる。
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 1943年11月。490班は広島を出港。シンガポールを経て、44年2月にビルマ・ラングーン(現ヤンゴン)へ。4月、ラングーンの北約30キロのローガで、ジャングルを開いて106兵站(へいたん)病院ローガ分院を造るのを手伝い、そこで勤務した。
 病院近くや寄宿舎には、大蛇や毒蛇、サソリが出た。「靴を履く時、サソリが中に入ってないかいつも確かめた」。平井さんは振り返る。日本軍はインド北東部のインパール作戦で英軍などに大敗北。7万人以上の死傷者を出した。ローガも傷病兵であふれた。
 45年1月。ローガから北約150キロのパウンデーへ転属になった。最前線に近い118兵站病院。重傷患者ばかりだった。「夜にロウソクの明かりで手術介助した。麻酔も切れた」と道北さんは話す。
 ビルマ北中部のメイクテーラとマンダレーが陥落。ラングーンのビルマ方面軍司令部は東のモールメンへ撤退した。
 490班がいたパウンデーは、前線に取り残されたまま孤立した。
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 4月27日。上司に指示された。「荷物まとめろ」「頭は三角巾(きん)」「制服は着ない」……。
 490班の23人は開襟シャツにもんぺ姿。隣国タイに向かって歩いて逃げた。標高600メートルほどだが、ほとんど道がない密林のペグー山脈へ入った。
 「食べ物も水もなく、1週間ぐらいは食べないのが当たり前だった」。道北さんは当時を思い返す。昼は隠れて寝て、夜に移動した。「何かに蹴躓(けつまづ)いたと思ったら、死んだ兵隊の足だった」
 5月9日。看護婦の小上よし子さんが病死した。遺骨を持ち帰るため、同僚が泣きながら小上さんの指を焼いていた。道北さんはその光景を忘れることができない。
 5月18日、ウェドン村に到着。半月以上かかってペグー山脈を抜けた。12日間、まともな食事もとれなかった。やっと得た休息。食事を取ろう――。その時、銃声が響いた。490班が受けた最初の敵襲だった。
(この連載は永井啓吾が担当します)
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日赤和歌山490救護班【中】
2006年08月14日
 ――敵襲逃れ濁流の河へ―― 8人飛び込み2人落命
 1945年5月18日。ビルマ(現ミャンマー)中南部のウェドン村。
 崩壊したビルマ戦線を抜け出し、タイへと逃げていく118兵站(へいたん)病院の約200人。その中に辻房子さん(86)、平井越子さん(86)、道北澄子さん(79)たち「日赤和歌山490救護班」の22人の姿もあった。
 道北さんは、民家の近くの大きな井戸で米を炊く準備をしていた。
 「看護婦は裏へ逃げよ!」。突然、誰かが叫んだ。その瞬間、銃声が聞こえた。敵襲だ――。
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 「日赤は死んではいかん!」「山の向こうに友軍がいる」「離れてバラバラで行け!」
 道北さんは夢中で葦(あし)原に走り込み、胸まで水につかりながら逃げた。葦の葉で切れて両腕は血まみれ、足の裏も切れた。
 このとき490班の看護婦2人が命を落とす。片畑まさよさんと辻雪子さん。書記の池本力松さん、使丁の長井庄平さんも……。
 長井さんは、険しいペグー山脈を越えるときも鍋を担いでいた。「鍋いっぱいに飯炊いて、看護婦のこの子らに食わすまで鍋は離さん」。道北さんが最後に聞いた長井さんの言葉だった。
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 逃れた看護婦は18人。このうち道北さんら8人は東へ進みシッタン河に突き当たった。「怒涛(どとう)の濁流。ゴゴーっと凄い音だった」。川幅500メートル以上。対岸ははるか遠くにかすんでいた。
 「大きな河や、どうする?」「渡らなしゃあないやろ」「死ぬんも生きるんも一緒やで!」
 8人は一緒に飛び込んだ。「必死で泳いだけど、流されて、流されて……」。道北さんは何とか対岸にたどり着いた。
 だが、山入貞子さんと射場房子さんがいなかった。
 「山入さーん、射場さーん」。道北さんたちは繰り返し呼んだ。泣きながら地面をたたいた。
 2人は泳ぎはうまくなかった。それなのに河に飛び込む時、何も言わなかった。「みんなの出発を遅らせてはいけない、と思ってたんでしょうね」。道北さんは目を伏せた。
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 6人は河畔で呆然(ぼうぜん)としていた。そこへ婦長の中尾敏子さんら4人が合流した。
 「生きていかんといけんのに、何してんの」「行きましょ、あの山へ行きましょ」「もう誰も死なんとこな」――。中尾さんが励ました。2日かけて山を越えた。「眠たいなあ」「きれいな水、腹いっぱい飲みたいなあ」。道北さんが思わず地面に座り込んだ。「元気出していこうよ」。中尾さんは傷ついた足に、バナナの葉を巻いてくれた。
 カンカンカンカン。鐘が突然鳴った。侵入者を知らせる敵軍の合図だったようだ。パンッパンッ。銃声が続いた。
 シッタン河の東、チョロ村。ここが490班の壊滅の地となった。
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日赤和歌山490救護班【下】
2006年08月16日
 ――包囲・銃弾 落命6人――
 1945年5月20日、ビルマ(現ミャンマー)中南部山中のチョロ村。
 ビルマに派遣された「日赤和歌山490救護班」は、タイへ逃げる途中だった。看護婦ら23人の班員は7人が死亡、6人がはぐれた。残った道北澄子さん(79)ら10人は、チョロ村の草原で包囲された。
 四方から敵兵がだんだんと近づいてくる。同行の兵士数人と窪(くぼ)地に身を伏せて息を殺した。カチッ、カチッ。いくつもの銃口が向けられているのを感じた。
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 「みんな、自決しましょう。捕虜になったらいけません」
 婦長の中尾敏子さんはそう言うと、ベルトを外して自分の首に巻いた。みんなも倣った。
 「死ぬのはいつでも死ねる。生きるだけ生きるんや」。兵士の1人が諭すように言った。みんな一斉に走って逃げた。ピュー、ピューと音を立てて銃弾が飛び交った。
 道北さんは左太ももを撃たれた。「止血せな」と叫ぶ同僚に、「私もうあかん。放っといて」と制した。体がしびれ、耳鳴りがした。かすむ目に映ったのは、隣で倒れた田中君代さんの死に顔。道北さんは叫んだ。
 「婦長さん殺してよ、死に切れんやんよ」
 「私、もうあかん。あんた、自分で死になさい」
 そして遠のいていく意識の中で、振り絞るような中尾さんの声を聞いた。「天皇陛下万歳」
 気づくと、道北さんは民家で毛布をかけられ、応急手当てをされていた。重傷の同僚2人も一緒だった。もう1人が別のところで拘束された。
 しかし中尾さん、田中さんのほか、狩野重子さん、原すみ枝さん、池田八重さん、中原忠子さんの計6人が命を落とした。誰もが赤十字のブローチを身に着けていた。
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 道北さんら10人とはぐれた辻房子さん(86)、平井越子さん(86)ら6人も地元民に拘束され、英軍に引き渡された。
 「あなたたちは日本の赤十字和歌山班ですね」
 辻さんと平井さんは、英軍将校の言葉を覚えている。「日本人は野蛮ですね。もし赤十字旗を掲げて歩いてくれたなら、不幸な目には遭わなかったでしょう」
 490班の23人。生き残ったのはわずか10人。ラングーン(現ヤンゴン)捕虜収容所へ看護婦として派遣された児玉よし子さんと丸沢定美さんが自殺した。再び日本の地を踏んだのは8人だった。
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 戦後、辻さん、平井さん、道北さんはそれぞれ定年や定年間際まで、看護婦の職を全うした。
 約20年前から月1回、ビルマでの死者を悼む弥陀(みだ)三尊像にお参りしている。辻さんは「三尊のお顔が中尾婦長に似てるなあ、といつも思います」、平井さんは「月1回、みんなに会える。生きている限り、最後まで続ける」と言う。
 道北さんは7回手術を受け、足切断を免れた。「ビルマでは仲間と一緒だったから辛(つら)くなかった。けがの後も、みんなに会いたい一心で生きていこうと思った」
 490班は8月15日をビルマで迎えた。あれから61年。3人の記憶は今も鮮明だ。  
  (この連載は永井啓吾が担当しました)