保存進まぬ戦争遺跡/南風原の壕を訪ね

2025年9月19日

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2006年08月10日
 「戦争遺跡」という言葉をご存じですか? 壕(ごう)、砲台など、明治~第2次世界大戦末期に築かれた、軍事関連の構造物全般をこう呼んでいます。太古とはいえない「遺跡」ですが、大事な歴史の証言者。とはいえ、発掘や保存を巡り問題も。戦争遺跡の多い沖縄の場合は――。
 白く渇いた岩肌に、直径2メートルほどのトンネルが口を開ける。入り口わきのテントには、出土した軍靴やベルト、印鑑ケースなど、約60年前の日用品が……。先月、沖縄県南部の南風原(はえばる)町で開かれた「第32軍司令部壕」の発掘現地説明会での風景だ。
 同壕は44年、旧日本軍第32軍の司令部として建造された。トンネルは総延長約2キロともいわれ、本道から支道が走り、一時は約3千人の将兵や軍属が配置されていたという。今回発掘されたのは支道の一つで、長さ30メートルほどだ。
 「電灯がともされた跡もある。壕の坑木を支えるために床下にも枕木を埋めるなど、司令部を意識した堅固な造りだと思う」と、発掘を担当した同町教育委員会文化課の上地(うえち)克哉学芸員は話す。
 戦前から交通の要衝だった南風原町には、司令部壕以外にも戦争遺跡が少なくない。有名なのが「南風原陸軍病院壕」だ。第32軍直属の陸軍病院のために44年に構築されたもので、ひめゆり学徒隊などが働いていた。同町教委は同陸軍病院壕を90年に町文化財に指定。94年からは調査を行ってきた。
 発掘では、生理食塩水が入ったアンプルや顕微鏡、注射器、鉗子(かんし)などが出土。沖縄戦末期の実態が、発掘によっても明らかになりつつある。
 「沖縄戦や南風原の歴史を語る上で陸軍病院壕は欠かせない存在。なるべく現在の形
のまま後世に残したい。平和学習の場として活用してもらえれば」と、同町教委文化課の大城和喜課長。来年4月には一部の壕の公開も始まる。
 ◆発掘は数自治体のみ
 だが、同町のような市町村は、沖縄県内でもむしろ少数派だ。同県教育庁によると、同県で戦争遺跡の発掘を行っている自治体は、同町や糸満市など数カ所。県自体も「戦争遺跡の発掘をしたことはない」(県教育庁の島袋洋・文化課課長補佐)という。
 背景には、“新しい遺跡”ゆえの事情があるようだ。
 地上戦の舞台となっただけに、沖縄には戦争関連の施設が多い。同県立埋蔵文化財センターの調査では、県内の戦争遺跡は約千カ所。単純計算すれば、「全国に2万以上」(戦争遺跡保存全国ネットワーク調べ)とされる戦争遺跡のうち、5%前後は沖縄県に所在することになる。
 これに対し、同県によれば、県内の近世以前の遺跡は約2600カ所。戦争遺跡まで加えると遺跡数は急増してしまい、「現在の調査員数からいって対応できない」(同県教育庁)という。
 さらに全県に戦争遺跡が広がる沖縄では、開発が制約されることから「すべての戦争遺跡を残すことは現実的ではない」(関係者)との意見も強い。6月には、那覇市にある第32軍関連のトーチカ(陣地)が未調査のまま工事で一部削られるという事件も起きた。
 「選択基準がはっきりしない」「県民の間に色々な意見がある」(同県教育庁)などの理由で戦争遺跡の県史跡指定も進んでいない。
 文化庁は98年の各都道府県教育長あての通知「埋蔵文化財の保護と発掘調査の円滑化等について」で、発掘対象となる遺跡の時代を「おおむね中世まで」とし、近世については「地域において必要なもの」、近現代については「地域において特に重要なもの」を対象にできるとした。近世より新しい遺跡の調査を行うかどうかの判断は、各自治体に委ねられているのだ。
 ◆専門家ら現状を懸念
 「戦後60年が過ぎ、今後、戦争遺跡の意味はますます重要になる。その発掘に際し、担当者の良心をあてにするような現状は好ましくない」と、戦争遺跡保存全国ネットワーク代表の十菱(じゅうびし)駿武・山梨学院大教授。
 戦跡考古学が専門の菊池実・群馬県埋蔵文化財調査事業団主任専門員(総括)も、「沖縄県は戦争遺跡の詳細分布調査を全国に先駆けて実施した。保存や史跡指定でも、他県をリードして欲しいのだが……」と語る。
 戦争遺跡に考古学的にアプローチすることの重要性を80年代から唱えてきた當眞嗣一(とうましいち)・元沖縄県立博物館長は「戦争はいつでも起こり得る。そのことを肌で感じてもらうためにも、戦跡は重要な存在だ」と話している。