遼寧省2025.6訪中団4-3、阜新炭鉱万人坑
最後、一般労働者の万人坑(死難鉱工遺骨館)へ。
左)亡くなった鉱夫の遺骨博物館の北坑
死鉱夫遺体博物館は1968年に建設されました。博物館は南北に2つの大きな埋葬坑からなり、110人の遺体が納められています。博物館は、これらの埋葬坑の元の場所に、当時の姿を忠実に再現して建てられました。これらの鉱夫たちは皆、ガス爆発、落盤、坑内浸水などの事故で亡くなりました。
これは納骨堂の北側の穴です。穴の底は比較的平坦で、長さ13メートル、幅1メートル未満で、58人分の遺骨が納められています。これらの現象は、日本占領下における中国人労働者の悲劇的な運命を物語っています。
遺骨を子細に見ると、手足の骨は残っていない、犬などに食べられるからだ。青壮年の鉱夫なので骨格もしっかりしている。
左)康徳6年、1939年、阜新炭鉱は労働者を募集するため万里の長城の奥地へ向かった。炭鉱長の張洪斌は、「万里の長城の奥地へ行くのですか?あそこでは米と小麦粉を食べ、もっと稼げますよ」と言い、「20元の定住手当も支給します」と付け加えた。当時、男性、女性、大人、子供など、多くの人が応募した。道中、「定住手当」を尋ねに行くと、炭鉱長は「阜新に着いたら渡します」と言った。
中)亡くなった鉱山労働者たちの終焉の地、南坑
これは納骨堂の南側の穴で、東から西に向かって傾斜しており、地形に沿って深く掘り下げて形成されたものです。穴の長さは11.1メートル、幅は3.5メートル、深さは約1メートルです。ここには52人の鉱夫の遺骨が納められています。
これらの犠牲者たちは北坑の人々と同じ運命を辿った。彼らは全国各地から集められ、全員が炭鉱労働者であり、様々な炭鉱の遺体保管庫からここに運ばれ、埋葬された。中には埋葬される前にまだ生命の兆候が見られた者もおり、事実上生き埋めにされたのである…。1936年から1945年までの10年間、阜新における日本の軍国主義の期間中、彼らは膨大な量の石炭資源を略奪しただけでなく、数え切れないほどの中国人労働者を殺害した。
ここまで遺骨を見学すると頭がおかしくなってきます。館を出てバスに乗る前、私は館長さんに抱きつかんばかりになってしまいました。阜新まで同行いただいた北票万人坑の前館長ご夫妻ともここでお別れし、バスは瀋陽へ向かいました。
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SNSで「万人坑はない、ウソ」と拡散する人への反論として関連書籍の情報を以下に示す。
・ 「万人坑を訪ねる 満州国の万人坑と中国人強制連行」緑風出版 青木茂 著P95より
当時の満州に住んでいた日本人が万人坑を知らないのは当然だ。満州国でも一般の日本人は中国人とは別々に住み、中国人が生活する場に行くことはなく、強制労働など惨劇の現場で直接手を出しているわけではないからだ。中国人といっしょに仕事をしているのは中国人で、日本人の責任者は中国人に中国人を管理させた。もちろん、炭鉱の管理者や実際に手を下した日本人なら万人坑のことを知っているが、そういう人物は日本に帰ったあとは口を固く閉ざし何も言わない。
・「万人坑を知る-日本が中国を侵略した史跡」瀋陽市東北大学出版 李秉剛 著、張玉彬・胥敏 訳
P39-40 日本が占領した鉱山では中国人労働者は名義では雇用労働者であるが、じつは日本人の奴隷だった。日本人はいわゆる「把頭制度」(把頭とは労働者を監視し、その自由を制限する大苦力頭や苦力頭のこと)を採用し、日本の資本家と中国の搾取者が一緒になって、中国人の労働者に骨の髄を吸うほどの搾取をした。





























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