週刊金曜日34号 1994.7.15 目次、「バターン死の行進」を行進する第1回

2025年9月19日

週刊金曜日34号 1994.7.15 目次
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P26 「バターン死の行進」を行進する 鷹沢のり子
 第1回バターン半島に残る日本軍の爪痕
日本軍は1941年12月、フィリピンに侵攻した。米・フィリピン軍はバターン半島で抵抗を続けたが、
42年5月に制圧される。
その直後、日本軍が捕虜を徒歩で移動させ多数の死者を出した。
この「死の行進」の現場を50年後にたどり直すルポ。
バターン市保税加工区の入り口にある「死の行進」の記念碑
「1942年4月、バターン半島先端のマリベレス及びバガックからオードネル収容所の米比軍捕虜の死の行進」
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・バターン半島陥落
米比軍のうち、アメリカ人は2万5千人、フィリピン人将兵は5万人、臨時義勇軍フィリピン人1万5千人。前線に出ていたのはほとんど比兵だった。
フィリピンの4月は1年で一番暑い。
戦場では、4月にお粥さえなかった。半数近くは病気。どうしてサンフェルナンドまで歩けるでしょうか。
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・市民も参加させられる
P31市民のなかにもマラリアにかかる人はいた。「生水は飲むな」と父親が言っていたので、コンデンスミルクを飲んだ。
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P32オラーニに到着。中心街に「死の行進」の記念碑が掲げてあった。3人の捕虜たちの姿の彫刻。

P33日本兵は日本刀で捕虜の足を切りつけた。銃の柄で彼らをたたいた。歩けなくなった捕虜は置き去り。
火野葦兵「バタアン死の行進」
・米兵と比兵
米兵が何も持たずに歩き、比兵のみは大きな荷物を肩にしている。上田広「地熱」
米の植民地になって40年。米比は侵略した側とされた側であり、日常的には主従関係だった。
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加害の歴史