皇軍毒ガス作戦の村2 週刊金曜日第78号

2025年9月15日

週刊金曜日 1995.6.16号P40~42   石切山英彰
北坦村虐殺事件の証言
中国・河北省にある北坦村では地道(地下トンネル)が掘られ、日本軍の侵入はことごとく退けられた。
しかし一九四二年五月二七日、掃討戦に出た日本軍は抵抗線を突破。そして多数の村民が潜んでいた地道に毒ガスが投入された。
村の民兵隊長だった季徳祥さんが語る虐殺の日ー
P41(略)。日本軍は、食料や物資を奪いに来た。日本軍が村を攻める時は、まず中国人を日本人兵士の前方に立たせて先に歩かせ、その後ろから来た。中国人に中国人を撃たせた。中国人を防波堤に使った。(李さんの声のトーンが上がり、語気が強くなった。表情は引き締まり、背筋をビンー!とさらに伸ばした。リンとした物腰。話しながら、右手を大きく何度も振り上げた。)(略)
 日本軍が準備を重ねて北坦村に襲い掛かった毒ガス戦の状況について、李徳祥さんは、続けて以下のように私に語った。
一九四二年五月二七日(旧暦四月一三日)夜明け前、日本軍はやって来て、北坦村を包囲した。明け方四〜五時頃、日本軍と私たちとの問で戦闘が始まった。私たちは武器でははるかに劣っていたが一歩も譲らず、激しい戦いは長く続いた。我々の県大隊班長の王老年(当時二六~二七歳)は、地雷を抱えて敵の中に突撃し、李国生の家の近くで敵と爆死した。青年抗日先鋒隊の班長、李孟甲(当時二〇歳)は、李化民の家の前で戦死した。昼。昼一一〜一二時頃が最も激烈だった。この日は、雲一つない晴天。風がなく、暑い日だった。
 私たちは、日本軍の攻撃を七度退けだが、八度目の突撃があった時、すでに弾丸や手摺弾、地雷のすべてを使い果たしてしまっていた。とうとうこらえ切れず、日本軍の村への侵入を許してしまった。
 日本軍は、村に入ると、地道の入り口数カ所を発見して、地道に毒ガスを投入した。毒ガス容器の形状は、ちょうど懐中電灯のような円筒形で、鉄製だった。長さは二〇センチ、直径三〜四センチほど。フタの部分も含めて全体が灰色だった。筒状の本体部のややフタ寄りの所に円周に沿って赤い線が一本入つていた。
 私は、民兵隊長として最後の最後まで地上で反撃したため、地道に入ったのが一番遅い方だった。
 地道にもぐり込んだのは午後一時ころと覚えている。そのためガスにおかされる時間が他の者より短く、地道の中での中毒死を免れた。
 ガスを吸引すると、ノドが乾き、嘔吐し、息が詰まった。地道の中で、多くの仲間が毒ガスで殺された。
 午後三時ころだったと思う、私は地道から引きずり出された。毒ガスにおかされて瀕死状態になった年寄りも子供も、民兵も、地道から地面の上に出された後、殺された。
私は、まだ生きている赤ん坊を日本兵が火の車へ放り込んで焼き殺すのを、この目で見た。王というこの時の赤ん坊の母親は、いまだ保定市内に健在です。また日本軍が村の女性を強姦する所を目撃した。一つの井戸は、死体で埋められてしまった。
 李洛油という男は地道から引きずり出された後、日本兵に頭を撃たれて殺される所だった。しかし、弾が右耳の後ろから右唇のはしへ抜けて一命は取り留め、戦後も最近まで生きていた。(李洛油の息子の李小三が「生前の父に直接聞いた」として私に語った所では、李洛油は一人に腕をつかんで躓かされちょうど振り返ったところを別の日本兵に後ろから撃たれた。日本軍が村を去ってから、八路軍の医者を探して治療した。)
 私は、東北(旧満州)では日本人の家で働いたことがあり、日本語をいくつが知っていた。毒ガスを吸い込んだせいでノドが猛烈に乾く。カタコトの日本語で「大君(タイジュン、日本軍を指す)、いたい、いたいデ、みずー」と日本兵に水を求めた。日本語がしゃべれる奴ということで、日本兵は私を殺さなかった(「水」「痛い」を李さんは日本語で私に言った)。この毒ガス戦で、およそ一〇〇〇人の同胞が日本軍に殺されたー。
 一九五六年、藩陽で行われた中華人民共和国最高人民法院特別軍事法廷で、私は北坦村の毒ガス虐殺の生き残りとして、一人でおよそ三〇分間証言した。法廷には他に、河北省満蒙潘家峪虐殺の生存者や、承徳での虐殺の生存者もそれぞれの事件の証人として出席していた。北坦村の毒ガス虐殺を命令した日本軍の上坂勝が出席し、私の証言内容が全くの事実であると、大体次のように認めた。
「李徳禅の証言内容は、全く事実である。私がその虐殺を直接に命令した。定県の東南部五〇華里ほどの地域は赤匪の根拠地だった。私の命令により、この地域で人間の目玉をくり抜き、鼻をそぎ、耳をそいで、殺した」
 上坂勝は、遼寧省の撫順戦犯管理所に入れられた。 北坦村のもと民兵隊長、李徳祥さんは、以上のように私に語った。(つづく)
ーー(以上、引用終わり。原文はこちら、ダウンロード<開く。著作権は週刊金曜日にあります。