皇軍毒ガス作戦の村3 週刊金曜日79号

2025年9月15日

週刊金曜日 1995.6.23号P48~50より、引用。 石切山英彰
北坦村毒ガス作戦の記録
日本軍が毒ガスを使用して一〇〇〇人にも及ぶ村民の命を奪った北坦村虐殺事件ー三光作戦」の文書資料がほとんど残されていない中、大虐殺に至ったこの作戦に関する日本軍側の記録を筆者は発見した。中国側による資料とも合わせて、文書に刻まれた毒ガス戦の実態に迫る。
1日本軍側の資料から
P49この連隊史のなかでも、『北支の治安戦(2)』-の場合と同じ大隊長が北坦村の戦闘を記述している(332ページ)「兼ねてより北坦村には地下坑道あり、隣村に通じているとの情報を得ていた。大隊長は各隊長に命じ、隣村に通ずる坑道の探索遮断出入口の発見を急かせた。数カ所の出入口を発見し、通訳を通じて降伏を勧告したが、応じない、日没も間近い止むを得ず発煙筒の殺人を下命した。」
 第一大隊の日本兵が地道のなかに下りて行って抗日勢力を殲滅した訳ではなく、地下の密閉された空間に向けて、武器となる「気体」を地上から投入したことまでは書いてある。その効果により、「敵は苦しまざれに一人又一人、穴の中から這い上がり次々と先を競って出て来た」。さらに地道の中から出て来た中国人たちについて、「便衣に着替えて『我的老百姓』(筆者注‥ウオータラオパインン、私は一般人であり軍人ではない、という意味の日本軍式中国語)と言うものもいた、本当の住民もいたであろう」と認めている。
 しかし、発煙筒の煙といえば、ガスの素人から考えても、化学兵器である毒ガスとは程遠い。私は毒ガス戦の権威、立教大学の粟屋憲太郎教授に電話で問い合わせた。
その際、中国側資料『河北文史典資料選集』の北坦村虐殺の項目や李徳祥さん証言にあった毒ガス吸引者の症状や、李徳祥さん証言にあった毒ガスの匂いや味、吸引後の症状をともに以下のように伝えた。
 症状:クシャミが出る、嘔吐する、涙が出る、鼻水が出る、全身が発熱する、ツバがひどく出る、ノドがひどく渇く、セキが出る、精神状態が不安定になる。ガスについて:トウガラシのきつい味と匂い、火薬の匂い。
これに対する粟屋教授の答えはー 日本軍が最も多く使用した毒ガス「あか」の可能性がある。化学名は「ジフユニールシアンアルシン」。発煙筒の煙に「あか」を混ぜることもあったが、もし発煙筒の煙だけなら、クシャミなどの症状は起こり得ないー。
 日本軍の毒ガス戦記録をまとめた『毒ガス戦関係資料』(「一五年戦争極秘資料集第一八集」。粟屋憲太郎、吉見義明編 不二出版)に目を通すと、日本軍が実は中国の至るところで毒ガス戦を行っていたことが分かった ー 「日中戦争が開始すると日本陸軍は、中国戦線各地で、催涙ガスのみならず『きい』(イペリット)、『あか』(ジフ三一-ルシアンアルシン)などの毒ガスを使用することになる。陸軍は毒ガス作戦が明らかに国際法違反であることを知っていたが、極秘にこれを実施したのである。日本軍の毒ガス作戦にたいし、中国国民政府や中国の各新聞は、抗議したが、日本側はこれを強く否定し続けた。」(15ページ)略
2中国側の資料から
P50(略)それによると上坂氏は、北坦村の戦闘に先立ち毒ガス兵器「赤筒」「緑筒」(筆者注:みどり」は催涙ガス)を傘下の大隊に配ったこと、その毒ガス兵器を第一大隊が使用したことを認めた上、(1)毒ガスの使用は、一六三連隊の上に位置する二〇師団(師団長‥飯沼守中将)の師団命令を受けたものであること(2)作戦終了後は必ず毒ガス効果を報告するよう師団から命令されたことを明らかにしている。また「この戦闘で、私が指揮する第一大隊は八路軍および住民およそ八〇〇人以上を殺害した」と述べている。さらに毒ガス使用の理由について、「漸次性の毒ガスであっても窒息により大きな殺傷力があることを、当時知っていた。日本軍がこうした毒ガスを使用したのは八路軍の地道戦に対応できず苦しんでいたからであり、窮余の一策であった。実験の名義で毒ガスを使用しただけでなく、これにより地道に避難した八路軍と住民を大量に虐殺することを図ったものであった」と供述している。
 この作戦が中国人民に与えた損害は、死者およそ一一〇〇名、家屋の破壊一〇榛、家屋の焼却三棟、家屋四五〇棟を奪い一〇日間使用したほか、中国人二四〇名を八つの砲楼の修築に一〇日間駆り出したという。(略)つづく。
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