ルポ皇軍毒ガス作戦の村(一)週刊金曜日77号

2025年9月15日

週刊金曜日77号1995.6.9 P20~25より引用。
中国・河北省における虐殺事件 石切山英彰
中国で日本軍が行なった三光作戦の生存者への聞き取りを進めた筆者は、北京から一〇〇キロにある北坦村での虐殺事件の証人に出会った。
この事件は日本軍が毒ガスによって一〇〇〇人に及ぶ村民を殺傷したものだった。
北坦村での取材に加え、毒ガス使用を明記した軍関係文書、作戦を指揮した大隊長の証言など、日中双方での裏付けを初めて行ない、非人道的な日本車の所業を追及する。
 中国を侵略していた日本軍の第一一〇師団第一六三連隊第一大隊は、「冀中作戦」中の一九四二年五月二七日、北京市の西南およそ二〇〇キロに位置する河北省定県北坦村で毒ガスを使用し、地下壕に避難した中国人八〇〇〜一〇〇〇人を虐殺した。この毒ガス使用は、ハーグ宣言を含む戦時国際法に違反する戦争犯罪である。
 私は、この事件に関して中国側では現場の北坦村を訪れ、毒ガス戦をかろうじて生き延びた村の元民兵隊長から「毒ガスが使われた」とする証言を聞き取る一方、日本側では同作戦を現地で直接指揮した日本軍大隊長の直筆記録から「毒ガスを使った」ことを明記している決定的文書を発見して上記の歴史事実を立証した。さらに同大隊長を捜し出し、自宅で大隊長自身に三時間のインタビューを行った。
 毒ガス戦の権威、立教大学の粟屋憲太郎教授は、北坦村で日本軍が使用した毒ガスの種類特定に関し、中国側のいう吸引者の症状などから判断する限りでは、とした上で(1)当時の日本軍が最も多用した「ジフェニールシアンアルシン」、通称「あか」の可能性がある(2)毒ガスの混じっていない発煙筒の気体だけを地下壕に投入したのであれば、中国側のいう「くしゃみ」などの症状は起こり得ない ー と私に回答した。同作戦に参加したもと日本軍兵士は、私の電話インタビューに対し、北坦村では「〝あか筒〝(毒ガス「あか」の携帯型兵器)を使うだから残滅できた。みんなが知ってますよ」と答えた。(略)
一 北坦村毒ガス戦の背景
(略)北坦村での虐殺が関係する日本軍の侵略行動は、日本軍により「冀中作戦(三号作戦)」と呼ばれ、一九四二年五月一日〜同年六月二〇日に行われた。「冀」は河北省の別称であり、「冀中」とは河北省を概念的に東、西、南、北、中央、の五地域に分けた場合の中央平原部を指す。「冀中作戦」は、この中央平原部を根拠地として日本侵略軍に対する頑強な抵抗を続ける共産党軍の残減を狙った「掃蕩」(サオダン、討伐)作戦だった。
(略) 侵略した日本側の立場からこの作戦を記録する資料として、『戦史叢書北支の治安線(2)』(朝雲出版社)がある。(略)
 同様の状況は、作戦終了後の以下のようを報告からも分かる-「沙河、水道溝河に沿う地区(筆者注:北坦村の属する地区)は、中共側が平原地拠点のモデル地区と称していた所であり、交通壕、地下壕の構築がはなはだしく進捗しており、ほとんどの部落が地下施設を設け、三力村約七〜八粁の間を地下壕で連接した所さえあった。また部落民の抗日意識が強く、半農半兵の状態で、老
幼婦女すら何らかの抗日団体を組織しておりために各隊の実施する粛正はきわめて困難であった。」(164ページ)
「不期に遭遇するか、あるいは追いつめられたときの戦意は相当に強く、特に部落による防御戦闘はきわめて靭強で、最後の一人になるまで抵抗した例は珍らしくない。」(171ページ)
 平原地帯でのこうした頑強な抵抗を可能にした一つの重要を理由は、引用文中にもあるように、抗日根拠地が地下壕(中国側はこれを「地道(ティータオ)」と呼んだ)を有したことだった。山岳地帯のように谷間など遠方まで逃げ延びるのに使える地理的な起伏をもたない河北の大平原地帯にあって、日本軍の侵略行動から命を守るため、民衆は地下に隠れ場所、「地道」を作った。地道は、最初は農作物を貯蔵する地下洞と地下洞を連結した簡単なものだったが、日本軍の暴行が熾烈を極めるに従い、中国人民衆もこれに対抗して、かなり大規模な地下施設に発展させた。『北支の治安戦(2)』は、「本作戦についての所見と教訓」として冀中作戦への参戦者の所見を総合整理するなかで、地道について次のように描写している-
「中共軍は平原地帯の抵抗拠点として各種の地下施設に最大の苦心を払っていた。たとえば、各家屋内床下に地下室を設けて相互に連接し、更にこれを部落外の秘密連絡点まで坑道で連絡するか、時には部落間に連絡用暗路を設けた所もあった。地下室は大小様々のものがあり、百数十名の兵員を収容できるものから、軍需品の一部を隠匿、格納するためのものまであった。坑道の入り口を発見するのは非常に困難であり、社寺院、廟、古井戸、堆肥小屋、堤防、物置、森林の中などによく秘匿されていた。このほか、畑などの凹道とか、丘の中腹等には潜伏用の横穴がたくさん設けられていた。」従って、北坦村に対する日本軍の「掃蕩」では、中国側の地道戦法への対処が成否の最大のカギだった。(略)
 二 現地、北坦村へ
(1)虐殺の記念碑
(略)北坦村で泊めてもらう農家へのお礼に、タバコ二カートンと酒二本を買う。中国での贈り物は、偶数が好まれる。これに加えて、中秋節(十五夜)が近いので月餅(十五夜まんじゅう)を買った。
(略)私はまず、村長の王慶珍さんの家を訪ねた。日本軍が毒ガスを使った虐殺事件の「幸存者」(シンツンシャ:九死に一生を得た人)に直接話を聞きたいこと、宿を都合して欲しいこと、などを告げると、快く引き受けてくれた。王さんは、虐殺の時四〜五歳。虐殺の日は地道の中に逃げ込んで一晩そのまま隠れ、翌日になって地上に出た。家族はすべて助かったという。李徳祥さんについては、当時の村の民兵隊長で、村にいた家族六人のうち本人を除く五人を殺されたと言った。今も健在と分かった。
 宿となった王さんの家に荷物を置き、早速、王さんと虐殺の記念碑を見に行く。村の中を歩きながら、「ここら辺りの路上には、当時、死体がごろごろころがってた」「この道の上にもー」と説明してくれる。地道は深さ二メートル、高さ二メートル足らずで幅一メートルほどのかなり大きなもので、だいたい村の中の道に沿ってその下部に掘られたという。
記念碑は予想以上の規模だった。石板で作ったさまざまな形の碑がいくつも、木立のなかに建っている。雑木林の一部を刈り込んで、敷地を作った感じだ。人を埋葬した後に土を盛り上げて作る土まんじゅうをコンクリートで作ってある。その周囲に桂を立てて裾の反り返った中国式の屋根をしつらえ、右手を振り上げた抗日兵士の人形をてっぺんに乗せてある。碑の周囲にコンクリートブロックやレンガを敷いてある他は、敷地内の地面は土で、雑草が茂っている。敷地の広さから言えば、「霊園」と言ってもいいほどだ。郷里のお宮さん(八幡神社)の境内のような雰囲気だった『しかし、ここは日本軍国主義の侵略によって殺された人たちを記念している場所だ。雰囲気が似ているといっても、よく考えれば、かつて中国人を殺した日本軍国主義の強力な精神的よりどころだった神道の「お宮さん」は、この霊園とは正反対の極に位置する。
 虐殺の被害者名を彫り込んである石板は四枚あった。白い石に北坦村を含む周辺村落の死亡者の名前がびっしり縦書きしてある。名字では李、王、采が多く、名前では「洛」字のつく人が多く目につく。被害者数何百人とか何千人とか数字で聞くよりも、実際に亡くなった人たちの実名をこうして突きつけられると、人間を殺したという事実に圧倒される思いがした。
 被害者への弔文が、別の石板にこう刻み込まれている- 一九四二年の「五二七」(五月二七日)は、一〇〇〇人の英雄たちの血の海の一日だ。「五二七」、それは偉大な民族解放戦争が敵味方の互いに譲らない段階に入ったなかでも最も悲しみの大きな一日だった。人を喰らう猛獣、日本侵略者とその走狗は、冀中の長期的統治の確保を狙い、華北に戦闘用の溝や堅塁を構築し、人民に対して血も凍る虐殺を展開した。定県の民族の愛国者八〇〇人-優秀な中国共産党員と勇敢な戦闘指導員、民兵、農民たち-は、まさにこの日、民族の不滅のために日本鬼子(リーベングイズ、侵略者としての日本人に対する蔑称)という獣どもと頑強に戦闘するなかで栄光の戦死を遂げた。我々が「五二七」の惨状を忘れることは、永遠にあり得ない。まだ母親の懐を離れない多くの乳飲み子と彼らの母親が、ともに虐殺された。烈士たちの鮮血は、黄土を赤く染めた。八〇〇人の遺体は、北坦村内の通りいっぱいに横たわった。子供らは父母を探し、父母は子供らの安否をたずねた。流れる熱い涙で人々の目は赤くなった。この恨みと傷心の日、それが「五二七」だ。だれがこの日を忘れられようか!ー
 日本軍による毒ガス使用は、以下のように描写されているー親愛なる死者たちよ。あなた方は、民族の自由と解放のために日本侵略者の壊滅的な「蚕食掃蕩」(カイコが葉を喰うようにジワジワと、日本軍が抗日勢力を包囲して撲滅を進めた様子を形容する言葉)を粉砕した。我々の故郷をまもるため、あなた方は勇敢にも武器を持って立ち上がった。我々の武器は手製の銃であり大砲であり、自家製の手溜弾や地雷だった。一方の日本鬼子は、これに一〇〇倍も勝る機関銃や大砲、戦車、毒ガス(原文:毒瓦斯)を持っていた。あなた方は郊外で、家屋の上で、地道の中で戦った。銃弾が雨あられと降るなかで、また毒ガス(原文:毒気)が充満するなかで、あなた方は激しく頑強に戦いを堅持した-。(略)
 (2)民兵隊長、李徳祥氏からの聞き取り
(略)李さんの帰りを待ちながら、奥さん(六八歳)から抗日戦争中の話を聞いた。彼女が一七歳の冬、日本子(リーベンズ、「日本鬼子」より弱い蔑称)はやって来た。掃蕩(サオダン)だ。(彼女は、日本軍が機関銃を撃つ音を擬音語で「グルグルー、グルグルー」と表現した)最初、だれだか分からなかったが、「おかしい、中国人じゃない。話してる言葉が日本語らしい」とみんなあわてた。奥さんによると、この後も日本軍は、北坦村に何度も来た。しかし、地道があって抗日勢力が頑強に抵抗したため、日本軍は村に入れなかった。そこで日本軍は兵力を集中し、今度は毒ガスを使って北坦村を襲った。これが北坦村の大量虐殺だという。
 河北平原の村々は、日本の侵略中そこらじゅうで地道を掘ったが、北坦村で掘り始めたのは一九四一年ころと彼女は覚えている。最初はやま芋を貯蔵する地下倉庫を互いに地下でつなげただけの簡単なものだった。地道ができると、自分たちの命を守る最後の逃げ場所だから、家の中のどこに地道口(地道の入り口)を作ってあるかは、めったに他人には知らせなかった。
「地道っていうのはね」と奥さんは、こんなふうに話してくれた「-抗日勢力を村に包囲した日本軍が、撃ち合いに優勢になったから、サアッ行くぞ!と突撃して村に踏み込むと、それまで猛烈な勢いで撃ち返して来ていた民兵らが影も形も見えない。これが地道戦(ティータオ・ジャン)さ。「だから敵は、〝八路(パールー)は神兵だ〞って言ったんだよ」と奥さんは笑った。(略)つづく
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いしきりやま ひであき一九六〇年、静岡県生まれ。一九八五年から中国・北京大学に留学。現在、会社員。
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