解体直前の京都府宇治市ウトロ地区
5月にウトロ地区が解体との朝日記事があったので、2016.5.27に見てきました。最寄りの近鉄伊勢田駅から、最初に道路はさんで反対へ行っておりみつけられなかったが、やっと看板のある家があり、ウトロ地区に着いた。



























古い建物を中心に撮った。地区内で子供のころから住んでいるという女性と少し話した。地区内の人は近隣に移った人もいる。下水道がなく不便だったが、今度の高層の市営?住宅は下水もあり便利になるとのこと。戦前の飯場を聞いてみたがわからなかった。写真(前に自転車が写っている)の小さな木造の平屋に8人?の大家族で住んでいたと、話していただいた。地区内をぐるっと歩いたがさほど広い面積ではなく、どうだろう7~800M四方くらいだろうか。時間にして15分ほどで歩ける範囲だった。業者が解体を始めている家もあり、今は更地になっているのでは。戦争の傷跡の町がまた1つ消えてしまった。ウトロ地区が生まれた歴史的背景を残せないものだろうかと、隣の立派な労働センターを見ながら考えた。(写真が今頃見つかり本日の掲載となりました)
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以下、京都新聞2016年06月22日より引用。
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20160622000169
京都・ウトロ、住宅解体着手 住民「つらいが前進」
在日韓国・朝鮮人が多く暮らす宇治市伊勢田町のウトロ地区の一部で22日、宇治市が市営住宅建設のため住宅の解体工事に着手した。地区には、太平洋戦争中に国策で進められた京都飛行場建設に従事した韓国・朝鮮人の子孫ら約150人が住む。豪雨のたびに浸水被害に遭うなど厳しい環境での暮らしを余儀なくされてきたが、地域再生の取り組みが始まった。
国土交通省や京都府、宇治市が2013年度に策定した基本構想の一環。20年度までに市営住宅2棟61戸を完成させて住民が移り住み、同時に雨水貯留施設や上下水道、排水路を整備する。16年度は、約2カ月間かけて市営住宅1棟分の敷地約3千平方メートルで解体工事を進め、年内に1棟目の建設着手を目指す。
この日は、業者が取り壊す住宅の周囲にシートを張るための支柱を立て、樋などを取り外した。ウトロ町内会の河本秀夫副会長(68)は「一生懸命働いて建てた家が壊されるのはつらいが、ウトロのまちづくりをいいものにする一歩を踏み出せた」と話した。
ウトロ地区を巡っては、土地を所有する民間会社が明け渡しを求めて提訴し、2000年には最高裁が住民に立ち退きを命じた。不法占拠状態となっていたが、住民の窮状を知った韓国政府が07年に土地購入のため30億ウォンの支出を決定。韓国の財団などが地区の約3割を購入したことを受け、住環境改善に向けた基本構想や事業計画がまとめられた。
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韓国ハンギョレ新聞2016-06-29より引用。
http://japan.hani.co.kr/arti/international/24516.html
[ルポ]「最後の朝鮮人労働者たちの集団居住地」ウトロ地区撤去開始
半分つぶれた屋根の下に、やせた木の壁と柱が素肌を現した。子供たちが走りまわり、毎年緑で埋まった小さな中庭は、荒々しい油圧ショベルで姿を消した。京都府宇治市伊勢田町51番地。日本に残る最後の朝鮮人労働者たちの集団居住地のウトロ地区が今、歴史の中に消えようとしている。韓国政府の支援金と韓日市民社会の募金を加えて購入した土地に、日本政府、京都府、宇治市が公的住宅などを作る「ウトロ町づくり」事業が、梅雨を避けるため予定より1カ月前倒しされ、今月23日に本格的に始まったためだ。最初に解体される住宅は、1943年に父親についてここに来てから一度も離れたことのないカン・チュンジャさん(76)の家だ。
「新居も良いけど、心はまだここ(ウトロ)にあります」
カン・チュンジャさんは先月中旬、ここから車で25分の臨時居住地に引越したが、買い物と「飲み」を口実にウトロ地区を頻繁に訪れる。ウトロの唯一の戦後第1世代生存者のカン・ギョンナムさん(92)も「自分の家がなくなると思うとじっとしていられない」と唇を固く閉ざした。しかし、カンおばあさんも分かっている。工事は続けられ、おばあさんの家もなくなるだろう。予定通り「ウトロ町づくり」事業は進行しているが、住民の心からはなぜ憂いが消えないのだろうか。
ウトロの守り手として活動している南区同胞生活センターのキム・スファン代表は、「ウトロの歴史性を排除して不良住宅改善事業だけが進行されている現状況」が根本的な原因だと指摘した。1941年、当事の日本政府が京都軍用飛行場を建設するために在日朝鮮人1300人余りを動員した結果、ウトロ地区は自然形成された。1989年に日産車体から土地を購入した西日本殖産が住民に対して強制退去を要求し、土地明け渡し訴訟を提起したため住民は追い出される危機に瀕した。日本の最高裁は2000年に退去決定を下し、その便りが知らされると、韓日の市民がウトロ地区保存のための募金運動に乗り出し、韓国政府も支援に動き問題解決の出口を開いた。紆余曲折の末、募金でウトロ地区の約3分の1にあたる土地2000坪を買い取ることにしたが、為替レートの変動と地価上昇で計画より面積を減らして土地はようやく買えたが、建築費の調達は見通しが立たなかった。そこで住民と彼らを支援する市民社会団体は、日本の行政を説得し、ここに公的住宅を作るというアイディアを出した。当面住民たちの住むところの用意も困難な状況で、在日朝鮮人たちの哀歓を保管しているウトロの原形を一部でも守ろうという要請は、まったく議論の対象にすらならなかった。住民たちを支援した日本の市民社会団体関係者たちも、事業の取消を憂慮して、日本行政府との交渉で“歴史”には触れないよう助言した。反省のない日本の歴史無視が「ウトロ町づくり」を通じて在日朝鮮人の痕跡抹消という形で現れた。
今後4~5年かけて、1次と2次に分けて進行される工事が完了すれば、ウトロの住民たちは新たに建てられる公的住宅に入居して暮らすことになる。計画どおりに進めば、ウトロには労働者たちの集団宿舎として1980年代中盤まで人が暮らしていた「飯場」も、住民会館「エルファ」もなくなるだろう。滑走路に使う土を掘り出したために周辺の日本人居住区域より地盤が低く、浸水に頻繁に悩まされ、地面に板を一枚ずつ重ねて当てながら完成したウトロ住民たちの家は、それ自体が住民の屈曲した人生を見せる歴史の教科書だ。だが、それもまた新しいウトロにはない。
一日の仕事を終えた油圧ショベルが唸りを止めて日が沈む。漆黒の闇と沈黙の中に埋められていくウトロの町のように、私たちの辛い歴史の一頁が消えていく。
ウトロ/イ・ジョンア記者


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