高槻地下倉庫「タチソ」見学会11.1
千里丘から平和をつくる会 の主催、高槻「タチソ」戦跡保存の会の案内で行ってきました。
JR高槻駅南口から高槻市営バス南6番のりば(松坂屋デパート前)、上成合行き「成合中町」下車(220円ピタパ可)。
駅前のセンターでタチソの説明。
本日の見学:タチソ(すぐばれる陸軍の暗号)の銘板、第2トンネル群T5とT3
以下、保存の会橋本さんの説明や資料からのメモ
・陸軍の中部軍司令部が大阪城(現ミライザ大阪城)の指令所と明石の川崎航空機「飛燕」のエンジン工場の建設をから高槻市成合地区に計画。米軍の爆撃機は中国成都から九州に来ていたが、昭和19年サイパン島や硫黄島が陥落し本土空襲が激しくなってきたため。
・昭19.9陸軍が成合の地主から坪3銭の賃貸で強制収容。10月に鉄道総局岐阜地方施設部と間組(ハザマグミ)が西檜尾川東岸の山で第1トンネル群の工事開始。
昭20.4ー8まで朝鮮人約3500人(内強制連行が約600人)、地元住民の義勇隊や、学徒動員の工事。
当時磐手国民学校5年生の方に聞くと磐手国民学校でチマチョゴリのオモニ、続く小さな子ども、祖父母を見かけ手を振るとオモニは悲壮な顔で快く協力している風ではなく祖父母が答えてくれたくらいであった。朝鮮の子どもは成合から磐手国民学校(現磐手小)へ通学した。
・茨木高等女学校(現春日丘高)から動員された故梅田さんの証言によると、敗戦後も来てくれと言われ書類を全部燃やす仕事をさせられた。朝鮮人労働者が下士官に殴られるのを目撃した。最初は手でたたいていたのが、靴になり、椅子がばらばらになるまで、暴力はエスカレートした。なんでとつぶやく梅田さんに、軍人のだれかが言った「朝鮮人だから」。
タチソの資料は一切残っていない(アメリカ国立公文書館で敗戦直後の米国戦略爆撃調査団撮影の写真が発見された)。故塚崎さんが見つけた高槻警察署の特高へ報告の1945年内部文書によると、タチソは1・2期工事未完成部分も合わせると計4万1000㎡。長野県松代に匹敵する規模の大きさだった。
左)当時の成合地区朝鮮人労働者の飯場、中)右)タチソ(陸軍の暗号すぐばれる)の銘板
・1995年タチソの銘板を建てた。村山談話のころ。地域によっては奈良の天理の柳本飛行場は銘板を撤去。(群馬では極右との訴訟の上敗訴し、群馬県知事が慰霊碑を破壊撤去した)。
・地元の阿弥陀寺に5体の朝鮮人の遺骨が預けられた。身元が判明した方は韓国の遺族へ遺骨を返した。
敗戦後朝鮮半島に帰るあてもない朝鮮人の家族が成合地区になんの補償もなく放置され取り残された。1980年まで上下水道が整備されず井戸で生活、裁判で「地元住民同士で話し合え」の判決が出て住民が土地を買い、家を建て直しようやくインフラも整った。
1)第2トンネル群T5、初歩の見学者には第2トンネル群を案内。
T5は貫通しており、崩落がある。10年以上前は180センチ以上の方でも立って入れたが、現状は入り口が土の崩落がありロープで入る。中に入ると立てる。向こう側の日差しがぼんやり見え、第2グループは向こう側まで這って出たとのこと。陸軍は予算がないせいか途中のみコンクリートで覆われている。背中が土で汚れるのでヤッケなどを着たほうがよい。懐中電灯、足元も登山用の靴がベターか。
2)第2トンネル群T3
左)当時の照明カンテラ、子供の頃夜店で見た記憶がある。容器の中にカーバイドと水を入れ、アセチレンガスを発生させる。隣りの写真のように暗い中で作業していた。一番右)トロッコの枕木の跡。
ダイナマイトの発破を仕掛ける穴の跡。
関西随一の戦争遺跡でした。
長野県松代や房総半島の赤山防空壕(入れず入口のみ)にも行きましたが、タチソは当時の地下トンネルの生々しさを感じられる点はピカイチです。各地の地下トンネルは柵で囲われたり、埋める例が多いものです。
加害の歴史をなかったことにする自民党極右やその亜流政党には望むべくもありませんが、戦前の大日本帝国の植民地支配と侵略戦争の歴史に目を向け市民学習の場として行政とも一体となり早急な保存を希望します(赤土で埋まってしまう前に)。
北摂の丘陵地帯は大阪城の司令部からも近く、茨木市に海軍の燃料庫や吹田市万博公園に弾薬庫など日本軍の施設が建設されたそうです。関西では他に奈良の屯鶴峯に地下トンネルがあると聞きました。





















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